書物と知識と対話の関係
一橋言語社会研究所の古澤ゆう子教授は大学の機関誌で次のように述べています。
何かについて「あの本のどこらへんに載っているか知っている」だけでは本当に「知っている」ことにはならない。しかし世の多くの「知者」は自分の内に持つまでに至らない知識を売り物にして世過ぎをしている。ドイツ留学中に「学生は覚えていることを要求されるが、教師はどの本に書いてあるか知っているだけでよい」という諺を聞かされ、けしからんと思ったが、今はこの制度にあぐらをかいて教師面をする日々である。「書物はそこで語られているものについて質問しても同じ答えをするのみ」で、向かい合う相手それぞれが抱える問題に即した疑問に応じようとしない。さらに「書物になってしまうと言葉はそれを理解する人であろうと・しない人であろうと、おかまいなしに歩き回る」ため、話しかける必要のある人のところにだけ行って・不必要な人には黙っているということがない。(略)ソクラテスは、まず相手に質問してその答えから議論を出発させ、自分の考えを述べながら反対論を吟味し、問答を繰り返して各段階で了解を取り、自説の開陳に終わることがない。
弁護士にとり法規は六法のどこに載っているか知っている程度で足ります。大切なのは当該紛争において最も適切な紛争解決規範である法を発見することです。その発見のため不可欠なのは生きた人との対話です。自分の依頼者・相手方代理人・裁判官・隣接諸業の専門家、こういった方々との真摯な対話の中から法は少しずつ発見されます。では書物は常に死んでいるのでしょうか?優れた法律の体系書は恐ろしいもので、そこで語られているものについて質問しても同じ答えをするのみではありません。法の発見に悩み、疑問を抱きながら、司法試験時代に読み込んだ体系書を読み返すと、かような疑問に答える記述が既に為されていることを発見し驚愕することがあるのです。