911の記憶・アジェンデの記憶
サルバドール・アジェンデは1908年に生まれました。チリ国立大学医学部を卒業後、チリ社会党の結成に参画します。1938年人民戦線政府に保健大臣として入閣し政治家としての地位を確立しました。1958年の大統領選では当選を逃しましたが、獲得した票の多さから、アメリカはアジェンデを脅威とみなし、CIAを通じて政治工作を続けました。そのためにアジェンデは1964年の選挙では大差で敗北し、再度1970年選挙に臨みます。この選挙でアジェンデは反共勢力による執拗なプロパガンダにもめげず僅差で勝利しました。
「共産主義政権は暴力革命によってしか生まれ得ない・ゆえに正当性がない」ことを国是として主張するアメリカにとって、アジェンデ政権の成立は許し難いものでした。1973年総選挙で人民連合が得票率をのばしたことで危機感を強めた反アジェンデ勢力はアメリカの支援の下で武力による国家転覆をもくろみ、同年9月11日、将軍ピノチェトが率いる軍部が大統領官邸を襲撃しました。アジェンデ大統領は最後のラジオ演説を行った後、軍部に殺害されます。ニュースを聞いたアメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(市場万能主義者の集まりであるシカゴ学派のボス)は小躍りして喜んだという逸話が残っています。大統領に就任したピノチェトは独裁体制をひき、以後16年にわたる軍事政権が続きます。その間チリでは数千人の市民が投獄され処刑されました。ピノチェトはシカゴ学派の経済学者を登用し「新自由主義」的な政策を実行させて富裕層を喜ばせました。
平成20年日弁連人権擁護大会第2分科会の基調講演を担当されたのは神野直彦教授です。上述アジェンデの悲劇は教授の講演により再認識させられました。