欲望の低下と浅い不寛容
精神科医・斉藤環氏はこう述べます(毎日新聞「時代の風」09/6/28)。
近年若い世代を中心に欲望の水位が低下していると言われる。確かに私の臨床現場でもかつてのように浪費や借金が問題となることは少なくなった。むしろ問題なのは全く消費活動をしようとしないケースのほうだ。こうした事例はとりわけ引きこもりやニートといった非社会的な若者に多く見られる。彼らは不安に圧倒されつつ見かけ上の禁欲にとどまり続ける。欲望よりも不安が人を動かすということ。それが事実であるとして、いったい何が問題なのであろうか。「かなえられなかった欲望」は断念や幻滅につながるだけだが「解消されなかった不安」はしばしば被害者意識を経由して怒りをもたらす。この種の怒りは、ほとんどの人々を不寛容にする。かくして共有されるのは「浅い不寛容」である。あえて「浅い」というのはその不寛容さが思想信条によるものではなく、しばしば情緒的で一過性でもあるからだ。状況が変わるとあっさり忘れられてしまう、その浅さこそが問題なのだ。
精神分析学は人間行動の根底に性欲の存在を想定してきました。近代経済学は消費行動の源を効用であると想定してきました。この「欲望」中心の学問に疑問が投げかけられています。ユング(フロイトを批判)やヴェブレン(見せびらかしの消費行動を重視)の見解の意味が見直されます。
「欲望」よりも「不安」が人を動かすということ。いったい何が問題なのでしょうか?解消されなかった不安は被害者意識を経由して多くの人々に怒りをもたらし多くの人々を不寛容にしています。この不寛容な怒りが「感情移入しやすい身近な他者」に向かっているのです。このプロセスに「社会格差と被害者意識の拡大」を読み取るべきなのでしょうか。