苦難と迫害の意味づけ
A 先生、私にだけ何故こんな問題が生じるのでしょうか?不条理です。
B ああ、あなたもですか?実は僕も難問が生じたとき「何故、先生のときにだけこんな難問が生じるんでしょうね?」って言われたことがあったんですよ。
A で、先生は何と?運がないとか、不徳の致すところとか答えたんですか?
B いや、別に。僕は割と楽観的でして。大げさな話をしますね。宗教の多くは悪いことや苦難のようなものが生じたときにそれを単純な因果で説明するんですよ。「悪い結果が出ているのは悪い原因があるからだ」って。前世であったり・悪魔であったり・祟りであったり。そういう宗教ばかり意識していると問題が生じたときに相当辛いですよね。「悪いのは自分だ」って。でも宗教の中には「これこそ神様がいる証拠だ」と考える系列もあるんです。ユダヤ教・そこから生じたキリスト教・イスラム教などに通底する考え方は苦難や迫害を受ければ受けるほど自分の信じる神様を肯定していくんです。「何故このように苦しむのか?」という問いに対して「神に選ばれた人間だからだ」って答えるんですね。迫害を受けるほど自分の正しさを確信する証拠と考えるんですね。
A うーん、私には判りにくいですねえ。
B そうなんですよ。宗教に馴染みがないと判りにくいですよね。でも僕は難問が生じた時に思ったんです。難問が生じたのは神様が僕を試しているのでは?と。そう考えたら気が楽になったんです。
A なるほど。宗教って、少し怖いイメージがあったんですけど、宗教が物事をポジティブに考える材料になるんだったら、少し関心を持つ意味もあるんですね。
B ええ。ただ、苦難や迫害を受けるほど自分の正しさを信じてゆく系列の考え方は、時として独善的になりがちですから、匙加減はよく考えておいてくださいね。