コミュニケーションの成立と消滅
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文春文庫)の記述。
コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合う者たちの間でのみ成立する。「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(sollicitation)がコミュニケーションを先へ進める。「あなたの言うことはよく判った」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。それは恋愛の場面で典型的に示される。「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよく判らない」ということである。論理的に言えば「よく判らない人間のことを愛したりすることが出来るのだろうか?」という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。逆に「あなたって人間がよく判ったわ」というのは愛の終わりに告げられる言葉である。(略)それと同じく逆説的なことだがコミュニケーションは「それはまだ成立していない」と宣言することで生成し「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである。
弁護士と依頼者のコミュニケーションは「もっとあなたの話が聴きたい。」というメッセージが発せられている限り良好になされます。他者の人生で生じた出来事の意味を、少ししか付き合っていない弁護士が簡単に判るはずはないからです。委任関係を結んだ弁護士と依頼者は「あなたのことがよく判らない」という無言の言葉を交わしながらコミュニケーションを継続します。未だコミュニケーションが成立していないからこそ「あなたのことがもっと知りたい」という欲望が生じるのです。そして、かような欲望が継続している限り弁護士と依頼者は目的実現に向けた運命共同体を維持することが出来るのです。弁護士が「あなたのことが判った」と宣言できるのは事件が解決したときです。弁護士と依頼者のコミュニケーションは成立したと宣言したとき消滅するのです。