文化資本について
何故、こういう書きモノをしているのか?何度も自問していることですが、逆説的に言うならば「それを明らかにしたいがために書いている」という変な思いが私にはあります。若いころの歪んだ思いを吐き出してスッキリしたいという感覚があるのです。「歪んだ思い」とは何か?それは文化資本の不存在に対する偏屈な感情です。良く誤解されるのですが、私は福岡県南部の田舎の職人の家に生まれた次男坊です。家にはまともな本がほとんどなく、小さいころから新聞配達をしていました。当然ながら音楽や正規のスポーツや語学や演劇・絵画・映画その他もろもろの文化的環境とは全く無縁の生活でした。ブルデューというフランスの社会学者が「ディスタンクシオン」という著作を書いていて「文化資本」に関し詳論しています。彼が使う「文化資本」とは文化財・教養・学歴・文化実践・文化慣習・美的性向などを包括した概念です。それらは社会階層によって生み出され承継され再生産されます。それらは投資され増殖され蓄積されます。すぐには役に立たないような「高級な」教養。これらは全て目に見えない形で「長期的に利得をもたらす資本の一種だ」というのがブルデューの考え方です(100分で名著:岸政彦「ブルデュー・ディスタンクシオン」65頁)。私は20代から30代にかけて自分の「文化資本」の無さに傷つき・憧れ・多少克服した意識を有しています。「文化資本」はそれが存在することが当然の人間にとっては当たり前すぎて目に見えないものです。「文化資本」は、それが存在しないことを自覚する人間においてこそ、存在がはっきりと目に見えるもののように思われます。私がこのコラムで引用している本の多くはすぐには役に立たないような「高級な」教養的著作です。それらは自分の生育過程において存在しなかったが故に逆に存在を自分に強烈にアピールしたものなのです。それらを「引用の枕」にすることによって、自分の「文化資本」の無さに対するリベンジをしているんだろうなあと私は自己分析しています。