神は要請される
ブログ「フィロソフィーガイド」の記述(カント「実践理性批判」の解説)。
ところで既に述べたように道徳に対応する幸福が可能となるのは、ただ悟性界=超感性的世界においてだけである。そして、この悟性界を作り上げている究極原因は「神」と呼ぶべき存在である。それゆえ徳福一致のためには神の存在がどうしても必要となるのだ。
ただし神はあくまで悟性界の原因であって現実世界の原因ではない。私は「この世界は神が作った」と言いたいのではない。それは原理的に背理である。原理的には次のように言わなければならない。すなわち神もまた自由や魂と同様に徳福一致をめがける実践理性がどうしても「要請」してしまわざるをえないのだ、と。
私は弁護士業務においても「神様的なもの」を想定することが要請されると感じています。イソ弁時代はボスが自分の仕事を割り振り監視しています。最終的な責任も取ってくれます。しかし独立すると自分に仕事を割り振り・継続的に監視し・自分の代わりに責任を取ってくれるような方は存在しなくなります。全てが自己責任となります。弁護士業務(現実世界)自体に「神」は存在しません。しかし弁護士の内的倫理(超感性的世界)においては「神様的なもの」を想定していないと結構「危ない」のです。誰も見ていなくても「神様に見られている」ような自分の良心を鍛え上げておく。面倒くさい依頼者にあたっても「この人は自分の成長程度を図るために神様が送り込んできた人に違いない」と思える心の余裕を築いておく。それらを実感するためには若干の場数が必要です。
実践理性の要請として<神様的なもの>を想定する・その神様に照らして自分の行動を評価する基準とする。これが、それなりに長く弁護士実務をやってきた私の「道徳法則」です。