知の過剰によるイスラム原理主義の解釈
池内恵氏はイスラム教の過激思想についてこう説明しています(読売新聞14/2/4)。
コーランやハディースの解釈は過去の膨大な文献に通じていないと出来ないため、かつては各国の政権中枢に近いイスラム法学者が独占していた。そうした法学者は比較的穏健な解釈をするのが常だった。ところが最近では主要文献がインターネット上にアップされるようになってきたために検索すれば誰でも直接文献に当たることができる。(中略)同時にイスラム諸国では中央政府の統治が揺らぎ始めているから「御用学者」としてのイスラム法学者の権威は失墜している。こうなるともう誰も過激な解釈を止められない。これが最近10年ほどの間に出てきた動きだ。イスラム諸国からの義勇兵が後を絶たない背景には、そんな事情もある。(略)加えてイスラム教の解釈の方法論や体系そのものの改革を行わなければ過激思想を退けることはできない。例えば「コーランの中の異教徒への抑圧や個人の権利を侵害しかねない特定章句は現代社会では適用されない」と明確に宗教者が議論しコンセンサスとして大多数のイスラム教徒に広まっていかなければ「イスラム国」の思想は論駁できない。(略)そのような改革を実現するには、ヨーロッパ中世が経験した宗教戦争の惨禍やルネサンスの熾烈な思想闘争がなければならない。「数世紀はかかる」と欧米化したイスラム教知識人は悲観している。それどころか「近代西洋の支配は終わった・これからはイスラム教の優越性が明らかになるのだ」と意気軒昂なイスラム教知識人が、過去20年ほどの間、現地では支配的だった。近代的な思想改革への機運が内側からも外側からも乏しいのである。
昔は民衆の「知の不足」が紛争を生じさせました。しかしインターネット社会では「知の過剰」が紛争を生ぜしめます。「御用学者」の存在意義が再認識されるとは何ということ!!