久留米版徒然草 Vol.217

経験と習慣

國分功一郎「手段からの解放」(新潮新書)に以下の記述があります(207頁)。

ならば主体が再来するための手がかりはどこになるのか。ヒントのひとつはおそらく習慣(habit)にある。我々はしばしばまず主体があってそれが習慣を身に着けると考える。しかし、そもそも主体とは数えきれないほどの大小様々な習慣の集積ではないだろうか。何事かを反復していくなかで身につけられた規則の総体こそが主体ではなかろうか。主体の形成には反復がかかわっている。しかし現代の経済体制において最も許されないのが反復である。我々は常に新しい需要・新しい目的・新しい夢を追いかけるよう駆り立てられている。我々は習慣を作る間もなく次のミッションへ投げ込まれる。習慣なき生は主体なき生であり、主体なき生は経験の能力を失っているーそんな風に考えられないだろうか。この予感を問題として考えるためには経験と習慣についての哲学的な諸概念を磨き上げていかねばならない。

私は田舎町の職人家庭で育ったからか、小さい頃は、あまり新しい需要・新しい目的・新しい夢を追いかけるよう駆り立てられることが無かったように記憶します。が漫然と大学生になり東京で新しい生活を開始した時に新しい需要・目的・夢を描くことを余儀なくされました。人生の重要な局面において、ある種の駆動因は多少なりとも必要なものであり(國分先生が否定されている程)悪いものとは感じられません。それは従来の習慣を変革することを要求するものであり、若い頃は必要とさえ私には感じられます。何故ならば私たちはどこかで変革の機会を与えられないと生まれた環境のまま人生を終えてしまう可能性があるからです。それは従前の経験をリセットするものであるだけにリスクに満ちていますが、新しい経験を得るために避けられないハードルなのです。
 でも、それは若い頃の話。還暦を過ぎた今、自分に必要なのは新しいものの開拓ではなく既に存在するもの(経験)の反復的享受であると思われます。齢を重ねた人間にとって必要なのは自己の変革ではありません。変革は「主体性の表れ」のように見えつつ実は「他律的消費社会への屈服」であるのかもしれない(消費社会は自己のリニューアルを、道具の買い替えを、強いる)。保守的かもしれませんが「遠くない自分の死」を見据え、今後の人生を実りあるものとするために「これまでの人生経験によって形成された自分の習慣を大切にすること」が重要だと私には感じられます。

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