実存と構造(@虎に翼)
対談を拝聴しながら「人が宣う(のたまう)地獄の先にこそ私は春を見る」という歌詞は良いなと改めて思いましたね(「地獄とは他人のことだ」とはサルトルの有名な定式化です@出口なし)。米津さんが「実存」という言葉を何度も使われていたのが印象的でした。「難しい言葉ほど純粋なんだ」とも発言されて、とても共感できました。一般に法律や哲学の用語って意味が決められていることが多く「言葉に対する思いの寄せ方の違いでコミュニケーションが破綻する」ことのないように工夫されています(純度が高い)。これに対し日常用語の多くは話者によって各々違った意味が乗せられているので当該話者の辿る文脈を正確に読み取らないと、使われている言葉の意味が対立し喧嘩になったりします(純度が低い)。私が哲学法律など「難しい言葉を使う世界」に魅かれたのは言葉の純度の高さに対する共感もあったのかなあと感じました。(2024/9/18)
基本的に法律実務は「実存に構造を対置させる作業」です。でもマクロ的にみると「構造に実存を対置させる作業」を行わなければ社会は良い方向に変わらない。このドラマは昭和初期という難しい時代において「生きにくい社会構造に自分の実存をぶつけて新しい道を切り開き後進のために舗装していった」稀有な人物を描く秀逸なものであったと私は感じます。
作劇上の手法も素晴らしかった。物語を駆動するのは世上「イマジナリー」と称された幻影や亡霊です。最終回で既に死者となった主人公は生者と対話する。その主人公も過去の死者と対話している。このドラマにふさわしい締めくくりです。「死者は単に消滅したのではなく今も生きて生者を見守っている」。かようなアニミズムに近い祈りの観念は多くの社会において古代から存在しました。それを(あまり重くならない形で)生かすことで深い感動を視聴者にもたらしました。最終回の義姉花江のセリフ(死んで父母や夫に逢えるのが楽しみ)や実母はるのセリフ(地獄の道はどうだった?)こそはドラマ全体を締めくくるに相応しいものでした。後者に関して虎子が「最高です!」と返すのはサルトルへのアンチテーゼ(他者は地獄だが同時に極楽でもある)と読み取れます。
「構造に実存を対置する」作業は(当事者にとって)厳しいものです。他方「実存に構造を対置する」作業も(裁判官にとって)容易ではありません。このドラマは両者の難儀さを丁寧に描き出していました。特に後者(裁判の過程)に関して戦後「家庭裁判所」という新しい組織を創設する際の人間ドラマが真摯に描かれていたのは実務法曹のはしくれとして感銘を受けました。同時に、これまで顧みられなかった「裁判(官)の家庭」をクローズアップすることにより「実存に構造を対置する作業」を行っているのは(機械ではなく)人間であることを表象して見事でした。
モデルとされた三淵嘉子さんは極めて豊かな家庭に育ち、戦争により未亡人となるも、初代最高裁長官の息子さんと再婚される知的エリートです。庶民にとっては縁遠い方です。にもかかわらず主人公が「虎ちゃん」として愛されたのはひとえに伊藤沙莉という素晴らしい女優さんの存在感のなせる技でした。脇役たる周辺人物も(脚本家の剛腕が凄かった上に)これを演じる俳優陣の素晴らしさで各キャラクター1人1人が主役級の存在感を放っていました。
素晴らしいドラマでした。脚本家をはじめ製作スタッフ・出演者の皆様に感謝です。