久留米版徒然草 Vol.149

「福田村事件」を観る

「おりなす八女」にて「福田村事件」を観る(2024/8/4)。田中麗奈さんの舞台あいさつが付いている。ちなみに田中麗奈さんは久留米出身で八女市の高校を卒業されています。

 映画公式サイトから引用。>大正デモクラシーの喧騒の裏で、マスコミは政府の失政を隠すようにこぞって「…いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩の仕業か」と世論を煽り、市民の不安と恐怖は徐々に高まっていた。そんな中、朝鮮で日本軍による虐殺事件を目撃した澤田智一(井浦新)は、妻の静子(田中麗奈)を連れ、智一が教師をしていた日本統治下の京城を離れ、故郷の福田村に帰ってきた。同じ頃、沼部新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商団は、関東地方へ向かうため四国の讃岐を出発する。長閑な日々を打ち破るかのように、9月1日、空前絶後の揺れが関東地方を襲った。木々は倒れ、家は倒壊し、そして大火災が発生して無辜なる多くの人々が命を失った。そんな中でいつしか流言飛語が飛び交い、瞬く間にそれは関東近縁の町や村に伝わっていった。2日には東京府下に戒厳令が施行され、3日には神奈川に、4日には福田村がある千葉にも拡大され、多くの人々は大混乱に陥った。福田村にも避難民から「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」との情報がもたらされ、疑心暗鬼に陥り、人々は恐怖に浮足立つ。地元の新聞社は、情報の真偽を確かめるために躍起となるが、その実体は杳としてつかめないでいた。震災後の混乱に乗じて、亀戸署では、社会主義者への弾圧が、秘かに行われていた。そして9月6日、偶然と不安、恐怖が折り重なり、後に歴史に葬られることとなる大事件が起きる―。

*福田村事件(Wikipediaより引用)
 1923年(大正12年)3月に香川県を出発していた売薬(当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西から各地を巡って群馬を経て8月に千葉に入っていた。9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県にも緊急勅令によって戒厳令の一部規定が適用され、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるために自警団が組織・強化され、村中を警戒していた。『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女15人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。生き残った被害者の証言によると、関東大震災発生から5日後の1923年(大正12年)9月6日の昼ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川沿いで「15円50銭」などと言わせ、休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと言葉を浴びせた。福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、収まらないので駐在所の巡査が本署に問い合わせに行った。この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が2発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には既に15人中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。かけつけた本署(松戸警察署野田分署)の警察部長が鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が生き残った。

* 感想。森達也監督はホント凄い。この内容の映画を今この時代に作れるとは!作劇上の技術として最初と最後を洋装した主演2人の静かな映像とすることで悲惨な事件に対する距離感(客観性)を上手に表現されている。4年前に起きた朝鮮の「3・1独立運動」も静かに表現されていて感銘を受ける。本作品では悪役となる自警団や新聞社部長を演じるベテラン勢も素晴らしい存在感だ。
 よく指摘されることであるが、虐殺は不安に駆られた村人が自分たちのコミュニティを「守る」ために始めるのだ。虐殺は何かを「攻撃する」ためではなく「守る」ために始まるという真実を映画は冷徹に描写する。国を・地域社会を「守れ」という「大義名分」を止めることは極めて難しい。集団発狂した民衆を止めるのは至難の業だ。これは現代にも通じる。井浦新演じる主人公が田中麗奈演じる妻から「あなたは何時も観ているだけじゃない」と言われて加害を止めに入るシーンには心を打たれた。上映会を企画いただいた「八女で映画を観る会」の平井さんに感謝。

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