福岡県い業会館
久留米から柳川に向かう県道(旧柳川往還)沿いに小さい洋風の木造建築があります。八丁牟田の信号を通り過ぎて右手にあります。い草を扱う業者3団体の会館です。 この建物は昭和11年4月20日に県立浮羽工業学校の設計・広瀬幸次郎氏の施工で建てられました。敷地は木佐木高等小学校の跡地です。
ペンキ塗り・下見板張りで基礎から立ち上がる縦のラインと窓間の堅羽目板の横のラインが組み合わさって外観に良いアクセントを与えています。玄関ポーチだけがコンクリート製という変わった造りです。この建物は外から観ると左右対称の構成ですが、内部は非対称で独特な雰囲気を持っています。天井や階段の手すりなどに凝った意匠がみられます(宮本和義他編「建築グルメマップ2・九州沖縄を歩こう」エクスナレッジ83頁)。
畳表の原料である「い草」は湿地帯に自生する多年生植物で、世界には約300種類ほどあります。日本のい草は約50種類です。細い茎だけで、葉は無く、約1・6メートルほど迄成長します。12月の寒い時期に植え付けて7月の早朝に刈り取り、泥染めを行って乾燥させます。その先端と根元を切り落として、麻糸や綿糸で織り上げます。一目のなかに経糸(たていと)を二本織り込みます。一枚の畳表を織るのに4000本から7000本のい草が使われます。畳は日本の伝統的な床材です。芯材になる板状の畳床(通称「とこ」・乾燥した稲藁を圧縮して厚さ5・5センチくらいに縫い止めたもの)に、い草で作った畳表(通称「ござ」)を縫いつけて作るのが基本です。
畳は縁(通称「へり」)を縫いつけ装飾するのが通常です。柔道畳や特殊な用途の畳には縁をつけないものもありますが、畳表を縫いつけないものはありません(畳表が無いものはそもそも畳とは呼びません)。最近はスタイロ畳といって発泡スチロールを芯材にしたものが主流になってきました(稲藁を全く使わないものすら存在します)。稲作の機械化により畳床の材料に使える良質の稲藁が少なくなってきたことが原因です。畳の成立は古く、古事記に「畳」の記述がみられます。奈良の正倉院には聖武天皇が使用したベッド状の畳(御床)が残されています(佐藤理「物語・ものの建築史・畳のはなし」鹿島出版会6頁)。平安時代には現代に近い畳が生み出されており、日本の風土にあった敷物として広く使用されていたようです。当時、畳は高級品であり権力の象徴でした(同書14頁)。茶道・華道・柔道など、日本文化の発展において畳敷きの部屋は欠かせません。
日本のい草の主な産地は熊本(特に八代)です。福岡県の場合、い草の産地は筑後地方、特に三潴・大木・大川・柳川といった地域に集中しています。温暖であり、冬でもクリークによって豊富な水量が得られることがその理由です。この建物が所在する地域は「八丁牟田」と呼ばれます。「牟田」とは福岡県南部の言葉で、湿地や沼地を意味します。筑後地方には他にも大牟田・前牟田・西牟田などの地名が残されています。古代、この地域に住み着いた人々は牟田に住むために大変な労力を費やして地面を掘り、掘った土を盛り上げて居住区域を乾燥させ、堀を繋ぎ合わせて水路(クリーク)を作りました。牟田はクリークをつくることで人間が住みやすい・農業もしやすい・メリハリの効いた土地に変貌していったのですね。地元の人でもクリークを自然に出来たものと思っている人もいますが間違いです。クリークはこの地域に住む人々の長年にわたる自然との格闘の産物なのです。柳川の「水の資料館」には古代の人々の労働の姿が視覚的に展示されています。
い草は12月の寒い時期に植え付けて7月の暑い時期に刈り取るので農作業的には大変な作物です。にもかかわらず、この地域で広くい草の栽培が行われてきたのは、日本家屋に畳が不可欠であるため安定的な需要が見込めたこと、冬に湿地で育てられる副業作物(商品作物)として貴重だったこと等によるものでしょう。この建物は福岡県い業製品商工業組合の他に、福岡県い業製品卸売協同組合・福岡県花筵協同組合の事務所として、3団体が共同で使用しています。最近、新築される住宅に畳敷きの部屋が減り、い草の需要が激減しています。建築家の方々に聞いても近時の住宅で複数の畳部屋をもうけるところは多くないようです。ただでさえ需要が減少しているのに、い草の輸入自由化により中国産の安価ない草が出回って、生産農家の方々を苦しめるようになりました。畳やい草の生産に拘わる方々の経済基盤が危うくなっているのです。しかし畳は日本の風土にあった敷物として長年にわたり愛用されてきたものです。日本における伝統的な「い草(畳)の文化」が失われてしまわないよう「福岡県い業会館」の前を通るたびに私は応援したい気持ちになります。(終)
* 私が15年前に訪れたときには補修工事の最中で中に入ることが出来ませんでした。
今も大事に使われているようで良かったです。今後も「地域の顔」として末永く存在感を発揮して欲しいと心から願っております。
* 畳のヘリを踏んではいけないというルールの意味。もともと畳は床全体に敷き詰められていたのではなく板の間の上に置きその上に座ったり寝たりするものだった。つまり座布団や敷布団のような役割であった。ヘリの布地は身分を表わす模様や色で染められていた。ヘリを踏むのは格式や秩序を踏みにじる行為とされ禁忌となった。ヘリには結界の意味もあった。この世とあの世の境である結界を踏むのは避けるべきとされた。(吉川さやか「日本の絶滅危惧知識」㏍ベストセラーズ)