歴史散歩 Vol.105

水天宮界隈

久留米の水天宮は全国水天宮の総本宮です。久留米は敗者と縁が深い街ですが、敗者の「聖地」としての色彩が強いのが水天宮です。この水天宮の境内を散策し、その後に周辺へ足を伸ばすことにしましょう。水天宮はJR久留米駅から西へ歩き10分程の「瀬の下町」筑後川沿にあります。

 鳥居の脇には勇壮な狛犬。 鳥居の額を揮毫しているのは東郷平八郎です。大日本帝国時代において水天宮は海軍軍人の崇敬を受けました。陸軍軍人の崇敬を受けた遍照院とともに軍都久留米の精神的支柱となっていたのです。遍照院における高山彦九郎に匹敵するのが真木和泉守です。

参道を歩いていくと正面に本殿が見えます。
 
 水天宮は平家が滅んだ壇ノ浦の合戦(1185年)の後、按察使局伊勢が安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼を祭神として祀ったのが始まりです。当初から「敗者の霊」を弔う場所だったのです。後述する江戸への勧請以前は「尼御前社」と言われていました。場所は何度か移転しています。旧所在地は日吉町で「水天宮旧鎮座地」の碑があります。現在地は瀬の下新川工事によって筑後川河畔になった場所なので(「田中吉政の遺産2)現在地への遷宮は直流化工事後ということになります(高山精二「久留米の町・寺社めぐり」によれば慶安3年です)。
 水天宮のホームページに次の説明があります(若干補正)。

安徳天皇の母である高倉平中宮に仕えていた女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は寿永4年(1185)3月24日壇ノ浦の戦いの後、千歳川(筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れて来て、建久初年(1190)初めて水天宮を祀った。伊勢は後に剃髪し名を千代と改める。周辺の民に請われ加持祈祷など行っていたところ、霊験あらたかであったため尊崇する者が日増しに多くなり尼御前と称えられた(水天宮は当初は「尼御前神社」と呼ばれていた)。千代は中納言平知盛(とももり)卿の孫・平右忠(すけただ)を養い後嗣とし現在に至るまでその子孫が代々宮司をつとめている。第22代宮司である眞木和泉守は幕末の動乱期に勤王派の旗頭として王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者である。千代の逝去後、里人はその墓を営み松を植え「千代松明神」とあがめ奉った。墓は株式会社アサヒコシューズ本社の前に在り、毎年春に奥津城祭(墓前祭)が行われている。

水天宮は明治初年の神仏分離に際し主祭神を「水天」から「天御中主神」(あめのみなかぬしのみこと)に変更しました。「水天」とは仏教における天部12天の1つで須弥山の西に住んでいるとされます。現在、水天宮において仏教に起源がある水天は祭神として祀られていません(全国に勧請された水天宮も同様です)。水天は記紀神話における始源神・天御中主神に当たると解釈され(本地垂迹説の逆バージョン)水天を祀っていた水天宮の祭神は天御中主神に読み替えられたのです。在位のまま入水した安徳天皇が「水天皇」と呼ばれていたので水天と同一視されました。水天宮は梅林寺(臨済宗妙心寺派)との結びつきが強く(神仏習合の影響)春大祭においては現在も梅林寺僧侶による手前(献茶祭)が行われます。廃仏毀釈によって行事が廃止されなかったのは奇跡です。

水天宮は真木和泉守(第22代宮司)を顕彰しています。真木は水戸学に傾倒し強い勤王思想を抱くようになります。南北朝時代の楠木正成を崇拝し「今楠公」と呼ばれました。「平氏」の末裔である真木が「源氏」政権である徳川幕府を目の敵にするのは極めて自然な流れと言えます。真木は一時は久留米藩の咎めを受け水田天満宮(筑後市)脇に蟄居させられました。

しかし間もなく脱出して幕末の政治を動かす重要人物になります。(水天宮に建立された銅像)

真木は幕末の激しい動乱期に勤王派の中心的存在となり「禁門の変」(1864年)において長州軍とともに決起します(久坂玄瑞と共に第1浪士隊総督として参戦)。しかし真木らは幕府軍に敗れ決断を迫られます。真木は天王山に退却した長州軍や諸隊に対して再起を図るよう促し、自らは撤退を拒んで同志16名と共に自匁しました。勤王派における「敗者」の象徴的存在と言えましょう。
 

辞世の句 「大山の峯の岩根に埋みけり我が年月の大和魂」

       (天王山にある真木ら17名を祀る碑)

       (上記碑の説明版・右端の絵が真木)

 真木神社では自刃の日(7月21日)に真木を顕彰する例祭が行われます。
 
毎年5月5日から7日まで行われる春大祭(5日御潮井汲み・6日水難よけ大漁祈願・7日御座船巡幸)。5月3日に野点と献茶祭が行われます。神仏習合時代からの慣例である梅林寺の僧侶による手前が披露されます。水天宮に奉納される絵馬には「御座船」の絵が描かれています。

 水天宮独特のお守りに「ひょうたん」があります。子供が溺れないようにと願いがこめられているものです。昔、久留米の子供はひょうたんを首にかけて泳いでいたようです。簡易なライフジャケットの役割を果たしていたのでしょう。8月初旬に開催される「筑後川花火大会」は慶安3(1650)年、久留米藩2代藩主有馬忠頼が水天宮に社殿社地を寄進し、その落成にあたり奉納したのが始まりとされています。「水天宮奉納花火大会」として続き、昭和40年に「筑後川花火大会」と名前が変わりました。約1万8千発の花火が同時に2箇所から打ち上げられる西日本最大級の花火大会です。「見物客が多くなりすぎて危険だ」という警察指導により現在は小森野と2箇所に分かれての開催となり「水天宮への奉納」という趣旨が薄まってしまいました。ちょっと残念です。

久留米藩第9代藩主:有馬頼徳は、文政元年11月、水天宮を江戸上屋敷(三田赤羽)へ分霊することを勧請しました。本来、水天宮は殿様の屋敷神として祀られたものなので、一般の人が参拝することは出来ませんでしたが、江戸時代の人々の信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちません。遂に「五の日」に限り、江戸屋敷が開放され参拝が許されました。人々は「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て『情けありまの水天宮、恐れ入りやの鬼子母神』と囃しました。当時の江戸の流行語になったそうです。「水天宮」と呼ばれるようになったのはこのとき以降です。本家は分家によって逆に自己を独自の存在として認識しました。水天宮は観光都市江戸の一翼を担い有馬藩の優良ビジネスとなりました(安藤優一郎(「観光都市江戸の誕生」新潮新書180頁)。東京水天宮は明治5年に日本橋蛎殻町に移転して現在に至ります。宮司は有馬家第16代目当主であられる有馬頼央氏です。

近くの道路には久留米つつじが多く植栽されています。
 
 
久留米の水天宮は「久留米つばき」の名所でもあります。早春の頃、境内は多くのつばきの花で彩られます。特に見事なのが「正義」(まさよし)という品種です。
     

境内に工藤謙同の石碑があります。工藤は豊後杵築の人です。長崎に遊学してシーボルトから西洋医学を学びました。長崎から豊後に帰る途中、久留米で不治の病とみられていた病人を治したことから乞われて久留米にとどまり医業を開きました。真木和泉守とも交友した結果久留米藩医学館が設立されています(雑誌「あげなどげな」第12号薬師寺道明「久留米の医学始まりものがたり」)。

瀬の下は筑後川の川港であり物資集散の拠点として河口港の若津(大川市)とともに繁栄しました。江戸時代、瀬の下町には19隻の帆船があり、後期には24軒の船宿が営まれ、町の賑わいは大変なものでした。瀬の下に水天宮がつくられたのは水神様に航行の安全を祈願する意味もあったのです。長門石は元々久留米の中心部と繋がっていましたが、瀬の下新川工事(筑後川の直線化)によって飛び地のような状態となり孤立してしまいました。そのため京町と長門石を結ぶ橋(長門石橋)が掛かるまで瀬の下町と長門石の間には渡し船がありました。その銘板が残っています。

 城下町における寺町には城への攻撃を前線で食い止める防衛ラインという意味がありました。瀬の下の寺院は久留米城における裏鬼門(南西)の防衛ラインだったのです。
 瀬の下は水天宮門前町として栄え色街でもありました。昭和30年発行の「全国女性街ガイド」によれば「赤線は水天宮下の瀬下町に40軒。5月5日から3日間の川祭りと8月5日から3日間の千燈明と花火の揚がる頃は揚がる嫖客も浮き浮きしてくる」と解説されているそうです(木村聡「赤線跡を歩く2」57頁より孫引き)。左の写真に写っている橋と建物は既に撤去されています。11年半の間に街の様子もずいぶん変わってしまいました。こうして写真に留めておくことには何らかの意義があると私は考えています。

* 三田の薩摩藩上屋敷は広大な面積(2万2千坪)を誇っていましたが、それ以上に広大な面積をもっていたのが久留米藩上屋敷(2万5千坪)。現在の三田国際ビル・三田高校・赤羽小学校・簡保事務センター・済生会中央病院・国際福祉大学・三田病院が建っている場所です。久留米藩上屋敷の名物は水天宮と火の見櫓でした。日本橋蠣殻町にある水天宮は江戸時代は三田にありました。文政元年に9代藩主有馬頼徳が久留米藩上屋敷に勧請したのが江戸水天宮の始まりです。江戸っ子の篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たたなかったため毎月五の日に江戸っ子のために有馬家は屋敷を開放しました。もう1つは幕府から増上寺の防火・消火にあたる大名火消を命ぜられ高さ三丈(約9メートル)の火の見櫓を組んだことです。他家のものは2丈5尺以内であったため有馬の火の見櫓は日本一と称されました。歌川広重も江戸百景「増上寺塔赤羽根橋」で火の見櫓を描いています。右手が増上寺五重塔・左手が火の見櫓。有馬家に関係する有馬温泉・水天宮・火の見櫓を江戸っ子はこう詠みました。「湯も水も火の見も有馬の名が高し。」

* 古賀正美先生の近刊「鬼と権現」(海鳥社)によると水天宮は梅林寺の寺内社として始まり事後も神仏習合の色彩が強いところであった(本尊は十一面観音菩薩)。5つの梵字が崩れた形態の「いつもじ」が収められた木製瓢箪は水天宮の貴重な収入源であった(この瓢箪を付けると水難にあわないとの信仰が存在した)。筑後は平家の荘園が多く平家に同情的な土地柄であったらしい。このことが尼御前信仰を中心とする水天宮に繋がっている模様である。

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