歴史コラム(掃苔へのお誘い)
先日、高野山の奥の院にお参りする機会がありました。一の橋から御廟までの約2キロの参道に数十万と言われる墓石があります。両脇に樹齢何百年と感じられる老杉の巨木が連なっており、独特の霊気を感じさせます。鳥居が備えられている墓も多く神仏習合時代の名残があります。明治維新期の神仏分離政策も奥の院にまでは破壊の魔手を及ぼさなかったようです。著名人の墓の前を通り過ぎながら私は「これらの方々は実在した人物なのだ」という不思議な感慨に襲われました。
掃苔と書いて「そうたい」と読みます。直接的には墓石の苔を掃くことを意味しますが、ここから派生し趣味としてのお墓巡り、先人の墓を尋ねその事績に思いを馳せることを意味するようになりました(小栗結一「掃苔しましょう・風流と酔狂の墓誌紀行」集英社新書)。お墓の前に行くと謙虚な気持ちになります。その方がこの世に実在し・一定の時間を経て・土に戻られたことをイメージします。その方が感じた喜び・苦しみ・悲しみを可能な限り感じようと努めてみます。
高野山において空海は「死んだ」と考えられていません。弘法大師空海は「入定」し今も奥の院に眠っている、そう信じられています。だからこそ後世の多くの人々は永遠の命を求めて空海とともに生きるべくこの地に墓を建立しました。「人は死んで墓に入るのではなく今も生きて生者を見守っている」。かようなアニミズムに近い祈りの観念は既成の組織宗教が現代人の心を掴み損ねているからこそ素朴な形で現代人の心を打つのでしょう。新井満氏が「千の風になって」(講談社)を出版したとき(2003)私は感動しました。が、これが映画となり(2004)記録的な大ヒットになる(2006)とは夢にも思いませんでした。「現代日本人の心は水気を失い、からからに乾いている」。八女の大先輩:作家五木寛之氏がよく使われるフレーズです(たとえば「情の力」講談社20頁)。かような精神的な乾きの中に、新井満氏がしっとりとした水分を含んだ死者の声を・あまり重くならない形で響かせたからこそ、この曲は日本人の心の琴線に触れたのだと思います。
掃苔は陰気な趣味かもしれません。しかし何から何までプラス思考帝国主義の世の中で少しくらい墓場でマイナス思考に浸る時間があっても良いのではないか。私はそう感じています。