市役所付近の今昔
久留米市内で最も目立つ建造物は市役所です。地方都市においては「役所が一番立派」という所は珍しくないのですが、久留米市役所(20 階建て)の存在感は格別。(*本稿は改訂版です)
この建物は平成6年(1994年)に久留米市出身の建築家菊竹清則氏の設計で建てられました。
両面採光の梁間16・8メートルの無柱事務空間、日射調整のバルコニー、低層部ライトコートなど「省エネ・自然との調和」という現代的テーマの解決を試みたものと評されています(「建築グルメマップ2九州沖縄を歩こう」エクスナリッジ81頁)。
現市役所の敷地は旧市役所の西隣にあった両替町公園です。旧市役所のあった場所は芝生の公園となっています。両者は(伊勢神宮的に言えば)古殿地の関係にあります。将来、市役所が建て替えられる時は現在の芝生に新市役所が建設されると思われます。
北にあった久留米市民会館も菊竹清則氏の設計でした。昭和44(1969)年築。大小ホール・大小会議室・福祉センターなどの機能を上下2層に振り分けて実現。大ホール可動式音響反射板が回転して間仕切りとなり、ホールを3つに区切る仕掛けは当時大いに話題になりました。
既に取り壊され「市民会館機能」は久留米シテイプラザに引き継がれています。
旧市役所庁舎は昭和4年建築。設計は倉田謙(九州帝国大学)施工は大林組です。現庁舎建築の際は旧庁舎を文化財として保護すべきとの意見もありました。が、市側は建物維持のために相当の費用がかかる・建物の文化的価値に関する懐疑的意見もあるとして旧庁舎の取り壊しを強行しました。しかしながら旧庁舎を有効活用すれば(例えば「市政博物館」など)維持費用などたかが知れています。同じ頃の建築である九州大学工学部本館や門司市庁舎・大牟田市庁舎などは大事に保存されているのです。建築探偵として著名な東京大学の藤森教授らもその価値を認めていました。久留米市が(表向きは文化をうたいながら)今ひとつ文化的な深みを持てないでいるのは行政機関自ら「文化的遺産を大事にしよう」という姿勢(哲学)を持っていないからだと私は思います。
以下に挙げるのは旧市役所が建設された昭和4年当時の地図です。
地図をみると市役所の北に警察署(東櫛原町に移転)西に久留米市公会堂(爆弾三勇士の銅像が置かれた)、その北に久留米高等女学校(現在の石橋迎賓館)が各々あったことが判ります。
時代を遡ります。明治11年に市役所南に九州5番目の銀行として第61国立銀行(現筑後信用金庫片原町支店)が設立され、明治31年に東に久留米商業会議所(現久留米商工会館)が設立され、その北東に裁判所が見えます。付近は久留米の金融・商業・司法の中心でもあったのです。
さらに時代を遡ります。この芝生の公園には江戸時代(天保元年・1830年)に建てられた「御使者屋」がありました。その石垣が現在も残されています。
御使者屋は久留米城の外郭に堀を通して接しており、商人が住む両替町・片原町・通町などに隣接していました。御使者屋は久留米藩の「公」と「私」を繋ぐ場所にあり、迎賓館的な機能を果たしていたのです。御使者屋は「有馬藩の鴻廬館」と呼ばれていました。
明治維新後、御使者屋にそのまま三潴県庁が置かれます。三潴県が福岡県に編入された後は支庁となり明治21年の市制実施以後は「市役所」が置かれ久留米市政の中心を担ってきました。
市役所20階のロビーに教会堂の模型が展示されています。これは慶長5年(1600年)頃に時の久留米藩主である毛利秀包(ひでかね)が建てさせたものです。この模型は宮本達夫氏の監修によるもので、平成3年に現庁舎建築に際して実施された両替町公園の文化財調査により発掘された柱跡から計測して、ヴァリニャーノ神父がつくった建築規則を参考にして復元されました。
秀包は中国地方の雄である毛利元就の末子(9男)であり、妻の引地は豊後のキリシタン大名大友宋麟の7女でした。両者とも豊臣秀吉の人質であり秀吉の勧めで結婚したものだそうです。両名とも熱心なクリスチャンであり、洗礼名は秀包がシメオン、引地がマセンシアと言いました(秀包に洗礼を勧めたのは秀吉の軍師・黒田勘兵衛とされています)。藩主夫妻の比護の下、筑後のキリシタンは最盛期に7000人にも達していました。ルイス・フロイスは著作にこう記しています。
(秀包が)信仰に立ち返ったことは日本のイエズス会の会員に大いなる喜びをもたらした。というのは彼はデウスのお助けによってこの西国地方のキリシタン集団の頼もしい支柱となることが期待されていたからである。
イエズス会年報フロイスの書簡によると、1595年10月20日、フロイスは島原から出発して久留米の城下町に行き、信者の告解を聴き教理について説教しました。かかる布教の流れの中で城主秀包は教会堂を建てることを考えたようです。しかし関ヶ原の戦い(1600年)において西軍に属した毛利は敗れました。秀包は本国に帰る途中、下関で発病し35歳の生涯を閉じます。他方、関ヶ原を傍目に九州を席巻していた黒田勘兵衛(如水)に久留米城は支配されます。妻の引地は勘兵衛の配慮により長州に引き揚げます。かかる勘兵衛の動きの背景には九州をキリシタン王国にすることも視野に入っていたようです。しかし、かような動きを徳川家康が見逃すはずもなく、久留米城は筑後国主となった田中吉政の支城となりました。江戸時代初期、キリシタン弾圧は殆どありませんでしたが、慶長17年8月のキリスト教禁教令で全国的な弾圧が始まり、同18年12月に秀忠によるバテレン追放令が出されます。元和5年、吉政により教会破壊命令が出され、久留米の教会堂はこの頃消失しました。
元和7年、筑後国主たる田中家の断絶後、久留米城は有馬氏の居城となりました。
明治維新後、久留米城は廃城となり篠山神社となりました。境内(本殿に向かって右側)に小さい石廟が残されています。秀包が兄・小早川隆景の養子になっていた関係で「小早川神社」と呼ばれています。案内板に「ご祭神は毛利秀包公で妻の引地とともに熱心なキリシタンでした」と記されています。扉にはアンドレアス十字架(×印)が刻まれています。
市役所付近は、今も昔も、公私を結ぶ久留米の政治の中心です。久留米という街の政治を「誰が・どのようにして担っているのか」を端的に象徴している場所なのです。