夏目漱石と久留米2
私は前回、菅虎雄が保有する漱石の書簡を久留米にいた虎雄の「親族」が預かっていたこと、この親族が預かっていた書簡は「ある事情によって」永久に失われたことを述べています。最初に結論を示します。この親族とは虎雄の妹「順」です。ある事情とは順による「焼却」です。順について触れた論考は少なく、原武先生の著作と江下博彦「おジュン様」、小城左昌「夏目漱石と祖母『一富順』」が見受けられる程度です。これに漱石の妻・鏡子が口述した「夏目漱石の思い出」(文春文庫)を加え以下の論述を進めます。漱石と久留米の関係を考えるにあたり順と漱石と鏡子の心情を推測することは大事な作業だと私は考えています。
菅順は明治12年5月12日に菅家4女として生まれました。当時は昔ながらの良妻賢母教育が一般的で、良家の生まれであっても本格的に学問を目指す女性はほとんどいませんでした。が順は極めて向学心が強く兄・虎雄のような学者になりたいという気持ちを持っていたようです。小城左昌氏(孫)によると順は親族に対して「私は男に生まれたかった」と述べていました。後年、小城氏が「大学院を出るまでは来ない」という趣旨のことを述べた際には「よう言うたの。大学院を出るまで来んでも良いから本当に行ってくれなさい。私の分まで勉強しなさい。」と述べていたそうです。女であるがゆえに心ゆくまで勉強できなかったことが老年になってからも順の心には傷となって残っていたようです。ただ順は虎雄を育てた菅家の教育を受けています。書道・短歌・漢詩等に関する教養はトップクラスで英語にも高い知識を有していたようです。反面、主婦の仕事とされる料理・裁縫その他の家事はダメでした。髪の手入れや服装にも気を遣わなかったようです。高い知識を有し、男に負けない気概を持った女性。家事や身なりより学問に関心を持つ女性。それは明治という時代が要請した新しい女性の生き方でした。
順は兄・虎雄が五高の教授になると久留米から熊本に出向き名門尚絅学園に入学します。しかしその授業内容は良妻賢母を要請するもので順の期待を裏切るものでした。順は卒業後久留米に戻らず、虎雄宅で虎雄の子供や下宿していた五高生の世話をしながら勉強を続けました。ここに同居することになったのが松山からやってきた漱石です。明治29年4月、同居していた3人の書生に部屋を空けて貰い、漱石が入室します。順は漱石の部屋の掃除等の世話をすることになりました。漱石が日本最高のエリートであることは順も聞いていました。が実際に逢ってみると鼻に天然痘のあばたがある・ひどい咳で結核の兆候があるということで良い印象はなかったようです。他方、漱石から見える順は外見に無頓着で勝気な田舎の娘に過ぎなかったようです。2人は虎雄宅において2ヶ月ほど同居することになります。
江下博彦氏は「おジュン様」において順を漱石が思いを寄せた人として描いています。が、原武哲先生はこの点に否定的です。私も同じ印象を持ちます。同居していた当時、両者に恋愛感情は無かったと思います。漱石にとって順は「かわいそう」という哀れみの対象でしかなかったし順にとって漱石は結核に冒された「かわいそう」な人であったと感じます。順は漱石の部屋の掃除の後は血痰の付いたちり紙を集めて必ず庭で焼却していたそうです。問題はここに妻としての鏡子が加わること。明治229年6月9日、漱石は熊本で中根鏡子と簡素な結婚式をあげます。新婚草々、漱石は鏡子に対し「俺は学者で、勉強しなければならないのだから、お前なんかに構ってはいられない。それは承知していて貰いたい。」と宣言します(「漱石の思い出」34頁)。これは漱石の学者としての矜持から出た言葉でしょう。そこに悪意はなかったかも知れません。しかし鏡子は学問を積んでいるわけではなく(順と比較しても)教養は不足していたことでしょう。それが漱石の鏡子に対する軽視に繋がったのではないかと私は感じます。順と漱石に「恋愛感情」は無かったと私は考えますが、順と漱石の意識レベルの話です。鏡子には順に対する対抗意識や嫉妬が芽生えていたのではないかと私は考えます。鏡子は、順と漱石の「かわいそう」という感情(Pity)に「惚れた」(love)という感情を一方的に読み取ってしまったのではないでしょうか。(「三四郎」新潮文庫117頁・Pity’s akin to love.という英文を漱石は「かわいそうだたあ惚れたってことよ」と訳しています。)
明治31年6月末のある日、鏡子は熊本の白川に身を投げて自殺を図ります。幸い未遂に終わりましたし新聞記事にもなりませんでした(菅虎雄の尽力によるものと思われます)。が、この事件から当時鏡子がどれほど傷ついていたか、精神的に追いつめられていたかが推測されます。鏡子の「漱石の思い出」には自殺未遂のことは触れられていません。順にも一切触れていません。鏡子は自殺未遂事件を起こした後で覚悟を決めたと私は思います。それは鏡子が漱石と一生を共にするために必要な再生の儀式ではなかったかと私は感じます。鏡子は明治32年5月、熊本市内で長女筆子を出産します。鏡子は以後良き妻として漱石を支え続けました。鏡子を悪妻として考えている研究者もいます。特に「漱石神社の神主」と言われ漱石の理想化に努めていた小宮豊隆によって撒き散らされた悪評に影響されている方は多いようです。しかし私はそうは考えません。息子伸六氏その他の親族の証言に照らしても鏡子は良き妻でした。他方、漱石の暴力は酷いものだったようです。熊本で死の淵を見た鏡子だからこそ心の病を抱えた漱石を生涯にわたり支え続けることが出来たのだと私は思います。
順は明治30年久留米市善導寺町の一富留次郎と結婚します(入籍は明治32年4月ですが実質的には明治30年に結婚しています・実態と戸籍が乖離することは昔は日常茶飯事でした)。順は6人の子宝に恵まれました。詳細は次々回に述べますが、善導寺の一富家を漱石は明治30年に「鏡子に内緒で」訪れたことがあります。親友虎雄の妹とはいえ、密かに女性に逢いに行くという行動には漱石の心の中に生じていた「何か」を感じさせます。後にこの密会の事実が鏡子に発覚し、これに邪心を感じた鏡子が絶望感を募らせて入水自殺を図ったというのが事の真相のようです(あくまで推測)。
虎雄が託した漱石書簡が残っていない理由を説明します。虎雄は早い段階で久留米市呉服町の実家を引き払って東京に越しています。いくつかの場所を転居の上、明治43年10月に鎌倉由比ヶ浜海岸通りに居を定めました。虎雄は子供の頃に過失により他の子に傷害を負わせ死亡させたことがあり(隣家の油屋の息子と喧嘩になり石を投げたところ眉間に当たり相手が死亡した事件・図録「芥川龍之介と美の世界」8頁・原武哲)罪悪感を持ち続けていました。虎雄が早い段階で呉服町の実家を引き払ったのはかかる事情によるもののようです。久留米に帰省した際は(妻静代の姉婿がいる築島か)順が嫁いだ善導寺の一富家に泊まっていたようです。虎雄は漱石から受け取った書簡のうち内容に問題がない約40通を岩波書店に提出し、それ以外を順に託しました。「読後火中」と指示していました。虎雄に宛てた書簡には漱石の内面を吐露したもの(親友虎雄に対してだけ打ち明けたプライバシー性の高い文章)が含まれていたからです。中には虎雄に充てた借用証書もあったようです。しかし順は直ちに書簡の焼却を実行しませんでした。順にとり漱石と暮らした熊本の2ヶ月は生涯の記憶として残っていたのでしょう。小城氏によると順は漱石の書簡を風呂敷に入れ誰にも触らせなかったと言います。順は「夏目さんの結核菌が伝染るから触るな」と言っていたそうです。漱石の思い出を自分だけのものとしたい順の心の叫びだったのでしょう。ところが書簡は順の意思によらず破損してしまいました。昭和28年に久留米を襲った筑後川大水害によるものです。書簡の大半は水につかり判読困難なほど破損したようです。これを契機に順は焼却の意思を固め、残った書簡類を善導寺の自宅庭で全て焼却してしまいました。
順が住んでいた住居には現在誰も住んでいないため廃墟となっています。この庭で漱石直筆の大量の書簡が焼却されたことを思うと複雑な気持ちになります。(写真は善導寺に現在も住んでおられる順のお孫さん御夫婦のご協力により撮影させていただいたものです・私人の家屋であるため場所の詳細は割愛します。)
一富順は昭和45年11月11日に亡くなりました。享年92歳でした。
以下、漱石文学と久留米(および熊本)の係わりについて私の意見を述べます。職業作家となって以降の漱石の小説を貫くテーマは「三角関係」です。三角関係には2人の男性が1人の女性を巡って争う構図(三角関係1)と2人の女性が1人の男性を巡って争う構図(三角関係2)が成り立ち得ます。多くの漱石作品は三角関係1を主題としています。「それから」「こころ」「行人」などが代表作です。「欲望する主体」が男性しか考えられなかった時代において三角関係1がテーマになるのは自然なことでした。女性は欲望される客体に過ぎず自らの欲望の表明はなされませんでした。上記3作品(特に「こころ」)で女性の主体的意思が描かれていないのはそのためだと思われます。「欲望する主体としての女性」という思想は一般的ではなかったのです。しかしながら漱石は遺作(絶筆)において従前と違った構想を示します。「明暗」こそ三角関係2を主題として書かれた作品です。そこには2人の女性が1人の男性を巡って争う構図が見据えられています。女性は男性に対し自分の意思を明確に示します。他方で男性は明確な女性の意思の前に翻弄される弱者となっています(津田は自分から動こうとはしない)。「明暗」は男性ドラマばかり描いてきた漱石が初めて手がけた本格的女性ドラマなのだと私は考えます。
小説にモデルを見い出したがるのは素人の悪い癖かもしれません。小説は作家の想像力が創造した純粋な物語として読むべきものかもしれません。しかし「こころ」を読む際に大学院時代の漱石が小屋保治(K)と大塚楠緒子を巡って三角関係になっていたことを知れば漱石の世界をより深く味わえるようになります。小さい事実を核にして作家の想像力が結晶化するときに小説は作品としての形を表すのではないかと私は感じています。ですから漱石の小説を漱石の周りにいた人物像から考えてみるのも1つの有益な作業なのです。私は「明暗」を読み解くにあたって、お延(鏡子)-津田(漱石)-清子(順)という解釈図式を提案します。熊本で自殺を図った鏡子の中で展開された心理的過程を重視するものです。鏡子も子供を産んだ後は漱石と対等に張り合っています(「道草」において活写)。しかし、熊本生活の当初、鏡子の心の中においては壮絶な三角関係の嵐が吹き荒れていたに違いありません。そうでなければ新婚早々の自殺未遂という事態は考えられないと私は思います。
熊本と久留米で起きた出来事を基礎にして「明暗」の後半を推理します(漱石は死後の久留米の出来事を全く知りません・この推理は私の全くの創作です)。
①清子と津田には何も起こらない。結婚前の津田の秘密を書きつづった証拠書類を清子が保管していることが暗黙の内に示唆される。②清子と津田の密会を知らせる吉川夫人の話により、お延は嫉妬の感情を高まらせる。お延は精神の動揺を抑えきれずに入水自殺を図るが未遂に終わる。③お延は離婚を考える。しかし、そのときに子供を授かる。お延はたくましさを身につける。他方、津田は(痔の手術が失敗して?)若くして死ぬ。④清子は結婚前の津田の秘密を書きつづった証拠書類を大事に保管している。ところが、これを知った小林は証拠書類をネタにしてお延を恐喝しようと企み清子に接近する。清子は津田の死後の名誉を守るために証拠書類を焼却する意思を固めるが、自分にとっても大切な書類なので踏ん切りが付かない。そのとき自然災害が起き証拠書類は破損する。清子は、これをきっかけにして破損した証拠書類を全部焼却する。⑤お延には、清子の手元に津田の秘密を書きつづった証拠書類が存在したことも、清子が焼却したことも知らされない。恐喝のネタを失った小林は逃げるようにして外国に行く。⑥長い時間が経過した後、お延は安らかに死ぬ。津田と同じ墓に入る。⑦清子は結婚前の津田との関係や証拠書類の内容を一切他人に話さずに死ぬ。
以上が私の考える久留米版「続・明暗」です。
* この論考は菅虎雄先生顕彰会編「夏目漱石外伝・菅虎雄先生生誕150年・記念論文集」に掲載いただきました。
* 東京に出向いたとき「漱石山房」を訪れました。昔のビデオを見せてもらったところ、鏡子婦人が写っていました。漱石は江戸時代生まれですが、鏡子夫人は私が生まれた昭和37年に未だ御存命だったのですね。他方、順は昭和45年まで生きていました。今頃2人は黄泉の国で漱石をネタにして仲良く語り合っているのではないでしょうか?「ほーっほほほ。そんなこともありましたかねえ?」「遠い昔の話で忘れてしまいましたよ(笑)」
* 2016年9月からNHKで「夏目漱石の妻」が放映されました(全4回)。第1回。妻鏡子から見た変人夏目漱石という観点が貫かれている。鏡子の自殺未遂には複雑な事情があるが4回シリーズではカットせざるを得ないだろう(そもそも自殺未遂の件は原作「漱石の思い出」には出てこない)。第2回。漱石の病を長谷川博巳が渾身の演技で表現している。鏡子が東大医学部教授(呉秀三)から精神病だとの診断を聞いて逆に希望を抱くシーンが印象的。『漱石の思い出』の原文は以下の通り。「夏目が精神病と決まればなおさらのこと私はこの家をどきません・病気と決まればそばにおって及ばずながら看護するのが妻の役目ではありませんか」作家・夏目漱石が生まれたのは鏡子あればこその感を強くするシーンだ。第3回。塩原の養父との関係が主に描かれる。塩原との縁が切れたのは鏡子の尽力によるとの解釈が施される。さもありなん。第4回。実質的に「修善寺の大患」(44歳)で終わった。鏡子が『坊っちゃん』の「キヨ」だという解釈で終了。尾野真知子の演技は素晴らしかった。鏡子苦悩の台詞は原作には書かれていない。難儀を描き出した脚本は「道草」「明暗」等から脚本家の想像力により抽出されたものだ。かつて鏡子夫人は漱石を神格化した小宮豊隆により「悪妻」として描かれた。今回のドラマは鏡子夫人の良い鎮魂歌となったことだろう。
* 安部公彦氏は「100分で名著・集中講義夏目漱石」で次のように述べます。卓見。
胃弱小説としての「道草」ではえも言われぬ感情的不快感が腹部のもやもやと連動していました。健三は曖昧で片付かない面倒だらけの世界を慢性的な胃部不快感に悩まされる「胃弱者の現実」として受け入れます。これに対して「明暗」ではもっと明確な「痛み」がある。「どうしてあんな苦しい目にあったんだろう」と津田が思い出すのは痔の激しい疼痛。そんな苦痛が津田の中では精神的な「痛み」と重なります。(略)「道草」が何となく気持ちが悪いという胃部不快感を陰の主役とした「胃弱小説」だとすれば「明暗」も同じく腹部とつらなる。しかしもっと激しい痛みを描く作品です。私小説ならぬ「痔小説」と呼んでもいいでしょう。