歴史散歩 Vol.53

古代の筑後1

3回にわたり古代の筑後を散歩します。テーマとなるのは「古墳・山城・土塁」です。今回は八女古墳群を散歩しながら「磐井の乱」(528年)と古代権力創生過程を考えます。

八女市街地の北側にある東西10数キロメートルの八女丘陵の上には4世紀末から6世紀末にかけて古墳が約300基が築かれています。一般に「八女古墳群」と呼ばれています。西端の古墳を「石人山古墳」東端の古墳を「童男山古墳」と言います。この古墳群を結ぶ古代からの道には「古墳ロード」なる愛称があります。茶畑に囲まれた素晴らしい景観の道です。 

最初に西端にある「石人山古墳」を訪ねることとしましょう。

 石人山古墳は墳丘長約107メートルの大型前方後円墳です。横穴式の石室。
石室の前には被葬者を守るように武装した石人が立っています(名称の由来)。

 館蓋には直弧文や円文が浮き彫りにされています。見学者のために石室が露出されています。

 築造時期は5世紀前半と推定されており、後述する「筑紫の君:磐井」の祖父が被葬者であると考えられています。間近に広川町古墳公園資料館が建てられています。

八女古墳群の中央にあるのが岩戸山古墳。墳丘は約135メートル、周堤を含めた全長は約180メートルを誇る大型の前方後円墳です。6世紀前半に築造された古墳として「大王(天皇)稜」に匹敵する規模です。被葬者がいかに強大な権力を持っていたかが判ります。岩戸山古墳は学問的に被葬者が特定されている(異論がない)珍しい古墳です。被葬者は「磐井」(いわい)とされています。
 磐井は正史「日本書紀」の中において「ヤマト政権に対して反乱を起こした」と記述されている筑紫の豪族です。八女古墳群は磐井一族とその構成員層のものとされています。

 日本書紀に依れば「磐井の乱」の経過は以下のとおりです。
 527(継体21)年6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率い(新羅に奪われた南加羅と喙己呑を回復するため)任那へ向かって出発した。これを知った新羅は筑紫の有力者:磐井へ贈賄しヤマト王権軍の進行を妨害することを要請した。そこで磐井は挙兵し、火の国(肥前肥後)と豊の国(豊前豊後)を制圧するとともに、ヤマトと朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖。朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した。継体天皇は物部麁鹿火をヤマト王権軍の将軍に任命して鎮圧に向かわせた。翌528年11月、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が筑紫の三井郡にて交戦し磐井軍は敗北した。磐井は麁鹿火軍に惨殺された。同年12月、磐井の子・筑紫君葛子は敗戦の連座責任を逃れるため糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上して死罪を免ぜられた。


 この日本書紀の記述をどう読むかに関しては複数の考え方があります。戦前の学説が「中央(継体天皇)に対する反乱」と決めつけたのに対し戦後になると「九州権力と中央権力の闘争」と解釈する研究が出現します。この説は「当時、統一政権は未だ存在しなかった、九州を含めた統一政権は磐井征服後に成立した」と考えます(九州王朝説、複数の考え方がある)。九州王朝説は皇国史観の反省や日本書紀への拒絶反応(史料批判)を要素とする傾向が強いようです。この学説は九州人の願望に合致し、広範な支持を集めました。(田村圓澄他「古代最大の内戦・磐井の乱」大和書房、古代史シンポジウム「『磐井の乱』とは何か・九州多元王朝説を追う」同時代社など)。
 古代史門外漢である私には事の真偽は判りません。おそらく磐井もヤマト政権下にあった(ただし服従の程度は弱かった)と解釈するのが通説です(長嶺正秀「筑紫政権からヤマト政権へ・豊前石塚山古墳」新泉社58頁以下)。当時、北部九州に「ヤマト政権と全く独立した九州王朝があった」という解釈は広範な学問的支持を受けていません(小田富士雄「筑紫君磐井の乱とその後」別冊太陽136「古代九州」平凡社101頁、篠川賢「大王と地方豪族」山川出版社60頁など多数)。
 ただし磐井がヤマト政権下にあったとしても相当の独自性を有する北部九州の有力者だったことは間違いありません。ヤマト政権(継体大王)と磐井には朝鮮半島情勢に対する認識の違いがありましたが「反乱者」ではなかったと私は感じます。継体政権は日本統一(特に外交権統一)事業を進めるために磐井に戦争を仕掛け、勝利後に自らの正当性を主張するため「新羅による磐井への贈賄」の物語を創作し「反乱」をねつ造したのでは?と私は想像します。磐井と同時代人であったとみられる人物が被葬者とされる、立山山8号墳から発見された副葬品「垂飾付耳飾り」は多くが伽耶(朝鮮半島南部)の墳墓で見られるものです。これは当時「磐井一族が朝鮮半島南部と活発な文化交流を行っていたこと」を推認させます。ヤマト政権にとって許しがたい事態だったのでしょう。

 そもそも「日本書紀」は天皇の名により「日本」の名を冠し最初に編纂された「正史」です。正史は対外的独立国家として自己を確立するために・事後の国内統治を有利に運ぶために・過去の歴史を構成した極めて政治的な書物です。(学問的な観点からは)日本書紀の記載を鵜呑みにする訳にはいきません(岡田英弘「日本史の誕生」ちくま文庫149頁)。「筑後国風土記」には「磐井は惨殺されず豊の国に逃れた」という記載があります。筑後には古代からヤマト権力に対する反感が存在したのだと思われます(アクロス福岡文化誌「古代の福岡」海鳥社100頁大塚恵治)。

 岩戸山古墳には「別区」と言われる方形状の土地が付属しており、多数の石人や石馬が置かれています(レプリカ)。別区と多数の石人石馬の存在が岩戸山古墳の特徴です。

「筑後国風土記」には、別区において、解部(ときべ)という裁判官がイノシシを盗んだ盗人の罪を裁いたとの記述があります。別区には「法廷」としての意義が認められるのです(もしかしたら日本で最初の「法廷」かもしれませんね。法曹関係者は必見?)。高度の政治的機能が与えられている古墳はヤマト中央には見受けられません。この独特の雰囲気は現場で実物を見ないと感じられないものです。興味を持たれた方は岩戸山古墳の別区を直接見ていただくことをお奨めします。

 欽明13年(552)仏教が日本にもたらされます。日本書紀はこの年を「仏教公伝」とします(後の文献学的研究によれば538年とするのが正しいようです)。この年、朝鮮半島では新羅が任邦への侵攻を繰り返し百済が抵抗を示していました。百済政権は再三にわたりヤマト政権に対し援軍を要請しています。百済の聖明王が仏像や教典をヤマト政権に献上したのは「軍事援助に対する見返り」としての意図もあったようです。ヤマト政権中枢では、この異国の宗教とどう向きあっていくかに関し烈しい政治闘争・宗教闘争が繰り広げられました。結果、仏教を積極的に受け入れていく勢力(蘇我氏一族)が権力を掌握することとなり以後ヤマト政権は仏教を背景に人心を掌握するプロセスを始めることとなります。かかる宗教政策の背景には「磐井の乱」の内戦を武力により鎮圧したヤマト政権が血ではなく知による政治を緊急の課題とした事情があったようです(社会学的に言えば「知」による政治のほうが「血」による政治より統治コストが少なくて済む)。
 話を八女古墳群に戻します。「磐井の乱」の鎮圧により磐井一族は消滅したのでしょうか?磐井の子である葛子は糟屋の屯倉をヤマト王権へ献上し辛うじて死罪を免がれたくらいですから、政治力を大幅に低下させたこと明らかです。葛子の墓と考えられている乗場古墳(福島高校横に所在)が岩戸山古墳よりも遥かに小さい規模になり、石人石馬が無いのはこのためと考えられます。
 しかし磐井一族は消滅してはいなかったのです。岩戸山古墳の東約2キロに位置する「鶴見山古墳」から平成17年8月にほぼ完全な武装石人が発見されました(下の写真)。これは八女の特色である石人文化が「磐井の乱」後も受け継がれており、筑紫君磐井一族の勢力が決して消滅してはいなかったことを端的に証明するものとなりました(前褐「古代の福岡」107頁)。

6世紀後半になると八女丘陵上から大型前方後円墳は姿を消し群集墳と言われる小円墳群が増加します。前方後円墳を特徴とした支配者の力が衰え(それまでは古墳の築造が許されなかった)一般構成員層にも古墳が造営できるようになったこと・ヤマト政権の直接支配が進んだことを示していると解釈されているようです(大塚恵治「八女の古墳文化」西日本文化421号15頁、白石太一郎「古墳とその時代」山川出版社51頁、熊谷公男「大王から天皇へ」講談社学術文庫187頁)。

八女古墳群の東端に位置する「童男山古墳」は八女古墳群でも特筆すべき大型円墳です。直径は約48メートル。石室が開口しており、大人が立って入れる大きさを誇ります。


 付近には小古墳を含めた計27基の古墳が存在します。童男山古墳は八女古墳文化の最後を飾るもの。これを機に約200年続いた八女古墳文化は姿を消します。仏教文化の伝来により地方豪族が古墳を築くことより寺院を建立することに力を注ぐようになったためと考えられています。
 岩戸山古墳と童男山古墳の間には(東から)乗場古墳・善蔵塚古墳・丸山塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘塚古墳・丸山古墳など多くの美しい古墳が存在します。これらを繋ぐ形で「九州オルレ・八女コース」が設定されています。オルレコースの途中には八女中央大茶園や犬尾城跡もあり、素晴らしい景観を味わうことが出来ます。是非一度歩いてみてください。

* 2014年8月後記。柳沢一男「筑紫君磐井と『磐井の乱』」(新泉社)が発刊。以下書評
>岩戸山古墳は被葬者が特定されている珍しい古墳であるが、その研究の歴史(矢野一貞等)古墳の概要(南筑後の古墳群全体における位置づけ)現状(トレンチ調査など)等が判りやすく解説されている。本書の白眉は後半の「磐井の乱」の解釈。磐井は日本書紀の中で「ヤマト政権に対して反乱を起こした」と記述されているが、日本書紀の記載自体に疑念(史料批判)が提起されることが多い今日、この記述をどう読むかに史家の力量が問われる。本書は有明首長連合の形成と衰退・継体政権との関係・朝鮮半島との係わりなどの多元的視点から真相を推理。当時の朝鮮半島情勢に関し韓国の現地遺跡の丁寧な分析が加えられており、著者は百済と大加耶の抗争に対するヤマト政権の政治動向を「磐井の乱」の重要な要因とみる(ヤマト政権が百済に肩入れしたのに対し九州北部勢力は大加耶にも積極的な交流をしていた)。書紀が「磐井へ贈賄」という物語を創作したのはかかる背景がありそうだ。古代中央権力確立史に関心がある方は必読。
* 2016年5月21日有志数名にて「九州オルレ・八女コース」ウォーキングを実施。オルレコースは一部古墳ロードから大きく外れます。特に「古墳ロード」を通りたい方は一念寺から右側へ真っ直ぐ向かいます。その先に鶴見山古墳・丸山塚古墳など美しい古墳を見学できます。
* 2017年10月22日岩戸山歴史文化交流館館長・川述昭人氏の講演
 磐井の墳墓は石人山古墳と考える説が当初は有力でした(江戸時代の「筑後国石人図考」(1751)による)。この説が本居宣長「古事記伝」で引用されたので権威を持ちました。幕末に久留米藩の国学者・矢野一貞「筑後将士軍談」(1853)が文献考証に加えて実在する石人石馬の写生図や現地調査による実証的な研究をもとに「岩戸山古墳こそ磐井の墓だ」と提唱しました。明治大正時代に実証史学が行われるようになっても学問的進展はありませんでしたが、昭和31年に森貞次郎氏の論文「筑後国風土記逸文に見える筑紫君磐井の墳墓」によって矢野説が補強され現在に至ります。
* 2018年11月30日FB友伊崎祐介さんが関祐二「磐井の乱の謎」(河出書房新社)を紹介。
 ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見・磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見・継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致しておらず、今まですっきりしませんでしたが、この本を読んで、この出来事が古代史の大きな分岐点になっていたことが分かりました(朝鮮半島との関係はこの時代から大きな問題になっていました。「磐井の君」は百済にいいように扱われているヤマト王権の朝鮮半島に対する外交政策にかなりの「危機感」を抱いていたと思われます。)ヤマト王権側として「磐井の乱」を平定したとされる物部 麁鹿火(もののべ の あらかい)が何故筑紫国造磐井の征討将軍に就任したのか?当然「地の利」を知っていた可能性があり「物部」のルーツが筑後平野にあったことも推測されます。謎の多い高良山の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」には興味深い伝説があります。「 (高木神は)地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、神籠石を築かれて結界の地とされたために山上に戻れず、ここに鎮座するに到った、と社伝は説く。何らかの支配者の交代が起こったことを暗示するようだ。」綾杉るな「神功皇后伝承を歩く」上巻(不知火書房)。高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は「物部氏」の祖神という説もあり「何らかの支配者の交代」はこの「磐井の乱」の顛末とも重なってきます。
* 2021年12月18日岩戸山歴史文化交流館にて大塚恵治先生による講演「継体天皇と筑紫君磐井・ヤマトとチクシの磐井の乱」を拝聴。以下は要旨。①岩戸山古墳の石人・石馬には三葉文杏葉の陽刻や振り環頭の太刀形陽刻がある。これらは継体大王との密接な関係性を強く意識させる。古墳築造時点では磐井政権と継体政権との関係性は良好であった。②朝鮮半島南部に日本独自の前方後円墳が相当数築造されている。磐井政権による朝鮮半島への交易ルートが確立していたことを推測させる。③継体政権は朝鮮半島との関係を強化し先進的文化を導入するとともに自分を倭系社会唯一の代表者として東アジア世界に認知させる必要があった。④磐井は博多湾内に朝鮮半島に向けた港湾施設(糟屋屯倉)を設けており有明海・玄界灘・東シナ海に影響力を持っていた。特に朝鮮半島南部に独自の交流網を構築していた。磐井政権側にはヤマト王権と「対等独立外交」を目指す意図が垣間見られた。⑤ゆえに両者の衝突は必然だったのであり、中央集権化を進めたいヤマト政権(継体大王)にとって磐井を攻略することは不可避であった。そのため継体政権は磐井に対し戦いを仕掛けた。⑥戦いの結果、磐井の子・葛子が糟屋屯倉を献上したのは、もともと継体政権がこの奪取を主目的としていたからである。葛子が殺されなかったのは戦いの途中から葛子が寝返っていた可能性もある。⑦武雄市(佐賀県)に磐井神社がある。古代においてはすぐ前まで海だった。神社の場所は磐井が砦を築いていた処。継体軍は有明海から大量の船で攻め入ったと思われる。
* 「継体大王の故地」である大阪府高槻市と「磐井の故地」である福岡県八女市は令和2(2020)年に「八女市と高槻市との包括連携協定」を締結しています。1500年の時を隔てて両市が友好を深めることはとても良いことだと私は感じます。
* 西日本新聞2024/11/2「気ままに時間旅行」は面白い記事(@野村大輔)。
 豊前地域(京都平野)と筑紫君磐井の関連を強く指摘し綾塚古墳(巨石を積み上げた横穴式石室・八女市の童南山古墳に類似)や扇八幡古墳(全長58m・別区もあり)に言及。日本書紀は「筑紫の磐井は御井群で切り殺された」と伝えるが筑後国風土記には「豊前国に逃れた」とある。野村記者は「風土記は中央政権の考えに準拠するのが基本だが地元豪族ともめたら統治できない」として「磐井は縁故を頼って豊前国へ落ち延び、政権側の豪族たちは円滑な九州統治を考え密かに磐井を生かした」と推測する。九州歴史資料館「京都平野と豊国の古代」に全く言及がない視点なので真偽は良く判らない。古代史専門家の議論進展に期待します。
* 九州歴史資料館「特別展筑紫君一族史」図録(2024)の記述。中央であるヤマトに対しツクシは地方に位置付けられた。本領域観は万葉集でも詠われており「筑紫」の枕詞に「馬の爪」が充てられている。馬の蹄が磨り減って「尽きる」ほどの遠い地であることを表現する。筑紫の君は中心から離れた最果ての豪族に位置付けられた。ヤマト王権は筑紫の君「磐井」の討伐、筑紫国造の任命を通じ地の果てにあるツクシを王権に取り込んで現代の日本国に直結する領域を形成した。

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