歴史散歩 Vol.12

久留米ツツジの芽生え

毎年春になると久留米の街中はツツジの花で彩られます。主要な公共施設や中央分離帯などに沢山の久留米ツツジが植栽されており市民の目を楽しませてくれます。

 久留米百年公園では恒例のツツジ祭りが開かれます。園芸業者が自慢の作品を出品し、多数の愛好者が幸せな顔で買い求めていきます。高良大社右横の石垣には万治年間から植え込まれていたツツジの古木があります。高良大社の約1キロ東にある久留米ツツジ公園(中世の山城である毘沙門岳城の下)には約6万本の久留米ツツジが植えられています。

 現在、久留米ツツジは世界的なブランドになり、その種類は約700種にも達しています。その生みの親は有馬藩の武士であった坂本元蔵です。元蔵は久留米櫛原町で天明5年(1786年)に生まれました。櫛原は有馬藩の中級武士が軒を連ねていた屋敷町で現在は閑静な住宅街となっています。天保時代の地図を見ると櫛原町の五丁目に「坂本」と表示された屋敷があります。ここが元蔵の家です。元蔵は有馬藩の馬術指南役(御馬廻役)であり300石の禄を食んでいました。

 江戸幕府の治世が安定すると武道の必要性が低下し、武士も文化面に関心を移していました。江戸では霧島ツツジがブームになっており、元蔵も世間と同じく赤や白の単純な発色の霧島ツツジを愛でていました。しかし元蔵は次第に物足りなくなります。「もっと美しい複雑な発色のツツジを育てたい」との思いが元蔵を突き動かします。元蔵は多くの霧島ツツジを交配させて種子を得ようとします。良い種子を得るために鹿児島まで出かけました。元蔵は大事に持ち帰った鹿児島(霧島山域)のツツジを交配させて何とか種子を得ますが、今度は芽が出てくれません。ツツジの種子は極めて小粒のものであり数千粒で1グラムしかありません。苗床に種子を播く普通のやり方では発芽してくれないのです。元蔵は数年間に渡り発芽に挑戦しましたが、何度やっても駄目でした。
 元蔵が発芽を諦めかけたある日、アクシデントが起こります。交配させて得た小粒の種子を苗床に播こうとしている時に突風が吹き、せっかく苦労して作った種子が掌から吹き飛ばされてしまったのです(このミスは元蔵ではなく妻によるものとの説もあります)。元蔵は落胆し残りの種子を播くのを中止してしまいました。ところが1ヶ月ほど経った日、元蔵は石灯籠近くの青い苔の間に見知らぬ芽が生まれているのを発見します。それがツツジの芽であることを知って元蔵は狂喜しました。そして改めて苔の上に種子を播いてみると再び芽が出ることを確認したのです。いわゆる「苔播き法」の発見です。こうして実生の方法が確立すると、元蔵は親木を選定して盛んに実生を繰り返しました。その中から従来は決してみられなかった複雑な中間色の鮮やかなツツジが生まれていったのです。軌道に乗り出すと品種改良は加速し、久留米の街の大評判を得るようになりました。世界的ブランドに成長した久留米ツツジは櫛原町の1人の武士の手により芽生えたものなのです

櫛原町の屋敷は事後どうなったのでしょうか? なんと、この屋敷は久留米の裁判官官舎となっていたのです。官舎の一角には小さい碑があり久留米ツツジの元祖としての坂本元蔵のことが記してありました。その後、国(裁判所)が所有していた官舎の土地は一般競争入札により売却され某民間業者が落札しました。官舎は完全に取り壊され、大型分譲マンションが建てられました。

 直後は怒りを感じましたが、相当の時間が経過し少し怒りも和らいできました。現在、マンション入口付近に所縁を示す石碑が残されています。坂本翁の功績が忘れ去られないように語り継いでゆく責任を私は感じています。裁判官官舎から生まれた久留米ツツジの花は春になると裁判所の玄関先を明るく飾っています。久留米ツツジは裁判所に縁がある花なのです。
 寺町の妙正寺にある坂本元蔵翁の墓に感謝をこめてお参りしました。元蔵さんのお墓は自分が育てたツツジの花たちに囲まれています。幸福そうです。

(付録)
* マンションに建て替わる前の(裁判官官舎時代の)坂本元蔵宅跡。

  久留米まち旅「ブラ☆モリ櫛原」時の写真。説明しているのが私。手前が森さん。

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