ルーテル教会3
久留米憲兵隊が置かれていた跡地は現在某葬祭会社の倉庫として使用されています。今回は、その会社を発展に導くとともに、久留米市の福祉のために尽力された木下勇氏についてお話しします。
木下勇氏は大正11年に久留米市櫛原町で生まれました。昭和15年に久留米商業高校を卒業され昭和17年に久留米ルーテル教会で受洗しておられます。教会では財務部長を4期歴任されるとともに日善幼稚園園長として幼児教育にもあたられています。後年、勇氏は学校法人日本ルーテル神学大学(東京・三鷹市)の評議員も歴任されています。勇氏は18歳から20歳まで3年間肺病を患い、病と闘う中で信仰を深めました。氏は「常に喜べ・たえず祈れ・全てのことに感謝せよ」(テラロニケ人への手紙5章16節以下)の言葉に感銘を受け「逆境を恵みとして喜び、試練を感謝として受け止め、祈りによって新しい命を頂きなさい」との信念を得たそうです(NHKラジオ人生読本平成8年4月22日放送分)。
勇氏は昭和23年に兄弟3人で木下株式会社を設立します。棺屋は先々代・木下鶴吉氏が明治33年に創業されているものですが、先代・木下勇助氏が大正末に葬儀業を開始し、昭和17年の勇助氏急死を受けて隆人・勇・正の3兄弟で事業を承継されました。本店は本町・通町と移転し、昭和42年に憲兵隊があったこの場所に移転されました。この場所は戦後直ぐにサレジオ会ベルナルデイ神父により浮浪孤児・戦災孤児を収容する「久留米天使園」が設けられていましたが、御井町に移転した後、この場所に総合的な葬儀施設を作ったのです(現在の倉庫はこの時の本社家屋)。会社は発展し昭和53年には結婚式場「創世」(現ホテルマリターレ創世)も作られました。会社は平成3年7月、野中町に大ホールを備えた総合儀式場「草苑」を開設しました。オープンの際は久留米連合文化会が記念企画を催しました。
勇氏は社会活動にも精力的に取り組みました。特筆すべきは昭和26年から3期久留米市議会議員を歴任される中で「三本松町・本町通り」のために心血を注がれたことが挙げられます。勇氏は戦災後の遊び場のない子供達のため、昭和29年、三本松公園に無料の動物園を全額寄付により開設しました。昭和27年の構想開始から2年近い努力の賜でした。動物は別府ラクテンチ・宮崎の子供の国・鹿児島の鴨池動物園・熊本動物園・大牟田動物園などから寄付を募ったそうです。当初の敷き坪は300坪。今から考えれば小さいものですが、当時の状況で考えれば夢のような楽園でした。最初の3日間は入園者25000人を数えました。2年目に敷地が700坪に拡大され、動物は90種・330匹にまで拡大しました。
昭和30年春、インドクジャクの寄贈を受け繁殖を試みたところ大成功します。36年に成鳥は260羽に達しました。昭和39年に財団法人久留米市鳥類センターに組織を移管し、東櫛原に出来た総合スポーツセンター横に移転して現在に至っています。クジャクの一部は国鉄久留米駅に飼われ、駅のアイドルとなっていました。
勇氏は議員2期目のとき「三本松町・本町通り」が舗装される工事直前に中央グリーンベルト構造に変更させました。街の中に緑に溢れた空間を現出させたのです。緑に溢れた「三本松町・本町通り」界隈は気持ちの良い空間で、これを戦後早い段階で構想された勇氏の先見の明には脱帽します。さらに勇氏は道路の舗装完了直後から街路灯建設のために沿道の住民を説得し、昭和32年にグリーンベルト南北700メートルに渡り24基の水銀灯を、昭和34年には歩道1000メートルに渡り114基の蛍光灯を設けることを実現されました。これは沿道の住民の寄付と日華ゴム(現ムーンスター)の特別寄付金で賄ったものです。久留米市の財政状況が困窮していた中、市民の手による「明るいまち作り」を実現させた勇氏の手腕は長く称えられました。
勇氏が活動の母体としたのが「三本松・本町通り明るい町づくり推進協議会」。この会は50年以上にわたり久留米のまち作りに多大なる寄与をしてしました。勇氏が協議会を舞台に展開したのが「彫刻通り」の構想です。「三本松町・本町通り」の景観に文化的な香りを加えたいとの勇氏の熱意から生まれたものです。生前、この構想は2基が実現しました。1基目は平成11年7月の「豊穣」。 朝倉文夫の弟子である木内克の代表作と言える作品です。設置に当たっては道路の占有許可を巡って行政との交渉に長期間を要し、大変なご苦労があったようです。2基目は平成18年4月の「バルザック像」。ロダンの代表作です。勇氏がパリを訪れたとき、ラスパイユ通りに立つこの像に強い印象を受け「ぜひ久留米にも設置したい」と夢の実現のために12年の歳月と高額の費用を負担して久留米市に寄贈されたものです。設置に際しては東京芸術大学とパリ・ロダン美術館から多大な御協力があったそうです。
氏は60歳から毎日長時間歩くことを実践しました。天候不良にも体調不良にもめげず1日も休まず歩きました。距離は1日11キロ強。74歳の誕生日(1996年)には総計4万キロを達成されました。実践を続ける中で勇氏は「歩禅」という言葉を産み出しています。「座禅」に対置されるもので歩くことを極めることにより悟りを開く意味があるようです。氏が梅林寺の老師にこの言葉を紹介されたところ、いたく感心され、老師は山門に「歩禅 動中の工夫 静中に勝ること 百千万億倍す」との書を掲げました(後段の文は白隠禅師の言葉です)。
このように勇氏は仏教者や神道者とも親交がありました。それは儀式業者としての業務上の必要性もあったかと思われますが、勇氏の信仰心が寛容性に満ちた柔らかいものであったことにも由来すると私は感じます。氏の英断として特筆すべきは「清めの塩」「忌中の表示」を廃止されたことです。「清め」「忌」という慣習は死を穢れたものと考える習俗から生まれたものですが、この習俗に疑問を提起し「本来の仏教もキリスト教も死を汚れたものとは考えない」との信念から決断されました。儀式は習慣の産物なので周囲の抵抗も大きかったと思われます。勇氏のご苦労が偲ばれます。インタビューにおいて勇氏は「仏式が多い葬祭会社の社長がクリスチャンというのは意外です」という質問に対し、こう答えています。
宗教宗派を超えて宗教そのものの本質は祈りではないでしょうか。「自分がどの宗教であるか」ということより「自分に祈りがあるかどうか」ということの方が大事だと思っています。儀式とショーの違いは祈りがあるかどうかによると考えています。
人間が己の生き様を見直す最高の機会は、愛する者の死に直面したときでしょう。私は儀式に奉仕する者として葬儀の場を「死」から「生」を見直す人間改造の場にまで高めることが私に課せられた社会的使命であると考えております。
生涯を「キリスト教信仰」と「儀式業」と「まち作り」に捧げられた木下勇氏は平成22年4月に天に召されました。享年88歳でした。