歴史散歩 Vol.57

ルーテル教会1

日本福音ルーテル久留米教会は大正7年に建設された久留米最古の教会です。平成23年秋に久留米まち旅博覧会が「久留米の街中に響くパイプオルガンの調べ」の企画を立て参加者を募ったところ52名という多数の参加者を得ることが出来ました。私はこの企画に若干の関わりを持ち、その縁で教会の水原牧師と面識を得ました。私は牧師から「雲の柱・火の柱」(日本福音ルーテル久留米教会宣教80年史)という立派な冊子をいただきました。これを基に教会の沿革と建築・教会に所縁のある人・今回の演奏会について順にお話しすることにします。

筑後地区におけるカトリックの宣教は戦国時代からの長い歴史を有しています。これに対しプロテスタントの宣教は全て明治維新以降です。日本初のプロテスタント教会である「日本基督公会」が創立された翌年、1873(明治6)年に切支丹禁制高札が撤廃され、1884(明治17)年にキリスト教による葬儀が合法的に行えるようになりました。その後、1889(明治22)年2月11日に帝国憲法が公布されキリスト教は(一定の条件付きながら)公認されることになりました。日本福音ルーテル教会がこの地域に宣教を開始したのは1893(明治26)年、佐賀においてです。この年、アメリカから来日したシェラー牧師が佐賀十字教会を開きます。教会は佐賀を拠点として信者の数を増やし「日本福音路帖(ルーテル)教会」と改称します。1898(明治31)年デンマークミッションのウィンテル牧師が来日。ウィンテル牧師は東京で米村常吉の家に止宿して日本語を学び伝道の基礎を身につけ1899(明治32)年に佐賀に赴きます。このウィンテル牧師と米村常吉が久留米教会の基礎を作ったのです。1901(明治34)年、ウィンテル牧師と米村常吉が佐賀より久留米に来任し、久留米伝道の端緒を開きました。以後、両名を中心に信者の数を増やします。そのため新しい会堂建築の必要性が感じられるようになりました。
 1910(明治43)年12月、教会は日吉町2丁目の現在地(約606坪)を建物付で購入します。建物は翌年、教会用に改築されました。1915(大正4)年、幼児教育施設「日善幼稚園」が開園されます。この頃から礼拝堂建設の機運が高まり、米村常吉を委員長とする会堂建築委員会が精力的な活動を続けました。これは1917(大正6)年が、マルチン・ルターによる宗教改革400周年という節目の年にあたることが大きな契機となった模様です。1918(大正7)年3月、礼拝堂建設準備が開始され設計も着手されました。設計は名建築家として名高いウィリアム・メレル・ヴォーリスです。ヴォーリスの図面を元に同年5月20日(聖霊降臨日の翌日)工事が着工されます。施行を請け負ったのは関忠治です。総工費は1万3500円。工事は10月20日に完成し、11月9日に献堂式が挙行されました。塔の上の三角屋根は建築当時に存在しなかったようです(「80年史」によると三角屋根は教会創立50周年の昭和26年に設置されています)。
 現在の礼拝堂の様子をご覧下さい。良い状態で大事に使われているのが判ります。

建物だけでなくレンガ塀も立派です(文化財指定)。 

特徴的意匠は天井部の木製トラス構造・小さなステンドグラス・窓上のローソク型の枠・階段下の靴箱・二階の手すり等です(2年前に竣工した東京の明治学院大学礼拝堂と似ています)。







小ぶりながらヴォーリスのこだわりが随所に感じられる素敵な建物です。ヴォーリス設計の建築物は各地で登録有形文化財に指定されています。ヴォーリス設計の建物が現役の礼拝堂として生きていることは久留米にとって何と誇らしいことでありましょう。

 昭和20年8月11日久留米はアメリカ軍の空爆を受け市内の大部分は焼け野原になりました。しかし礼拝堂は焼失を免れます。この建物を産み出した信者さんたちの祈りとその期待に応えたヴォーリスの執念が、この建物を空爆から守ったのです。2011年、この建物は94歳になりましたが、今も美しく手入れされ、大地に根を張り、多くの人々を包み込んで、ゆっくり呼吸しているようです。今後も長生きして久留米の街を見守り続けて欲しいと私は願っています。(終)

*平成31年3月18日、国の文化財審議会は本建物とレンガ塀を登録有形文化財に指定しました。

* 近隣に所在するヴォーリス設計の建築物として西南学院大学の旧本館(現・博物館)をお勧めします。大正10(1921)年に建てられた3階建て。日祭日以外は無料で見学できます。

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