歴史散歩 Vol.173

ちょっと寄り道(高野山3)

最終日は「女人道」を歩き「奥の院」を参拝しました。空海という実在した人物についてホットに考えました。近世高野山のクールな検討とは全く別次元のことだと考えています。
(参考:司馬遼太郎「街道をゆく9」朝日文庫、同「空海の風景」中公文庫、NHK取材班「『空海の風景』を旅する」中公文庫、加藤精一他編ビギナーズ日本の思想:空海「三教指帰」「秘蔵宝やく」正木晃「理趣経」加藤精一「空海入門」角川ソフィア文庫、宮坂宥勝「密教経典」講談社学術文庫、白川密成「みんなの密教」NHK出版、正木晃「空海をめぐる人物日本密教史」(春秋社)など)

宿坊の朝は早い。午前6時半、アナウンスが流され朝勤行に出る。もちろん義務ではないが勤行に同席できることこそ宿坊に泊まる醍醐味である。本堂で行われる勤行は本来正座または座禅の形で拝見すべきものだが現在の普通の者にとって正座や座禅は辛いものがある。そのため座りやすい椅子が用意されていて多くの宿泊者は椅子を使う。「同行二人」と記された遍路姿の方もいる。ロウソクが灯された暗い空間内で僧侶の読経の声が響き渡る。朝勤行では護摩行(護摩壇に備えた炉で僧侶が護摩木を焼いて祈祷するもの)は行われない。勤行の終了後、堂内を案内していただく。
 午前8時から朝食。まず場に驚く。昨夜は自分らだけの閉じた空間としての座敷で食事をいただいたのだが今朝は襖が開け放たれており他の部屋の様子が見える。自然、他の宿泊者の方々と会話をする雰囲気になる。10分ほどの互いの部屋の見分が終ると襖が閉じられ各部屋に食事が運ばれる。食事自体は完全に独立した空間を確保。共同性と個別性の双方を楽しめる工夫がなされているのだ。感心。昨夜同様、シンプルだけど深い味わいの精進料理を美味しくいただけた。

友と共にチェックアウトして荷物を預ける。女人道へ向け出発する。警察署がレトロだ。聖方の本寺であった大徳院の裏山にある徳川家霊台は家康と秀忠を祀る。三代将軍家光の発願による。寛永20年(1643)落成。家康は「神」であるから鳥居が付いている(東照宮)が、秀忠は人間だから鳥居は無い(霊屋)。少し歩くと蓮華定院がある。真田ゆかりの寺だ。真田真幸・信繁(幸村)親子は当初この寺に蟄居し山下の九度山に移送されたと伝わる。裏山に真田信之・信政の墓が設けられている。徳川方についた信之と信政の墓が徳川霊台に寄り添うように設けられているのが印象的。
 しばらく歩くと両側に「高野山」「金剛峯寺」と記された門が現れる。「結界」を示す。直ぐ脇に「不動坂口女人堂」がある。現在まで残る唯一の女人堂である。高野山は明治5年まで女人禁制だった(ただし事後も女性たちへの禁制は事実上継続され最終的に女人禁制が全廃されたのは明治39年とされる)。そのため女性が高野山周囲に設けられた女人堂を参拝する巡礼路が開かれた。高野山へ至る道は7本あるが各々の入口に「女人結界」が設けられ、女性のための籠り堂として女人堂が建てられた(現在残っているのはこの不動坂口のみと聞く)。女人堂の中はほの暗く提灯の怪しい光が照らし出している。別世界の雰囲気。女人堂の前には巨大な地蔵が祀られている。南無。
 りんかんバスのバス停裏に女人道に通じる狭い階段がある。続く山道をひたすら登ってゆく。同行してくれる友は登山を趣味としている。フルマラソンを複数回完走している健脚である。山道では健脚の者が後ろを行くのが通例である。よって私が先に歩き後から見守ってもらうことにした。木根や石ころや泥に覆われた狭い山道が繋がっている。尾根道なので両脇は谷。今回は友と一緒なので平気なのだが「1人で行け」と言われたらちょっと引く。坂を登っていくうち何故か「胎蔵界」なる言葉が頭に浮かんできた。真言密教において「金剛界」と並ぶキー概念として「胎蔵界」なる言葉が何故選ばれたのか?「母胎」という語に現れる如く、それは悟りの境地を子宮に見立て表象しているものらしい。空海は高野山を女人禁制とし明治まで禁が解かれることは無かった。身体性を重視する密教は(一歩間違えば)単なる「欲望肯定の左道宗教」に成り下がってしまう。その危険性を空海は熟知していたのだ。真言密教の根本経典に「理趣経」がある。そこには驚くべき内容が含まれている。初段で解かれる「性愛の快楽はその本質が清浄なのですから菩薩の境地そのものなのです」以下繰り返し説かれる男女の性愛の高揚は若き男子修行者に困惑を与えるものだったであろう。「理趣経」の説くところは人類的視点では正しい。人類の存続に男女の性愛は不可欠であって悟りに達した如来の境地では性は悪ではない。しかし上記命題は修行途中の男子にとっては必ずしも正しくない。空海に続く真言密教の指導者が「真言立川流」を邪教扱いしたのは正しいと私は思う。空海が「理趣経」を最重要視しながらも高野山を清浄な修行の地として維持存続するため「女人禁制」としたのは誠に理由のあることであった。今もこの境地を維持している「新別所」なる修行地があり女人禁制が貫かれていると聞く。空海は遺誡で「悟りをめざす心を起こし悟りの境地をめざして遠く進むには足がなければ進むことはできない。仏道において戒がなければどうして悟りに至ることができよう。たとえ命を失ったとしてもこの戒を犯してはならない。もし、ことさらに侵す者は仏弟子ではない。」と断言しているそうだ(松尾剛次「破戒と男色の仏教史」平凡社140頁)。あなかしこ。
 細い山道を歩いていく。1人だと心細い山道も、後ろを(山道に手慣れた)友が付いていてくれるというだけで心強い。「同行二人」(どうぎょうににん)とはこういうことなのか!と感服。
 弁天岳(984m)到着。弁才天は仏教の守護神である天部の1つでヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教に取り込まれた際の呼び名とされる。人間にとって水は不可欠なので水を祀る弁天が崇められたのだろう。高野山は古くから苦心しつつ水源を確保してきた。水源は大きく分類して7つある。各尾根と支流に七弁天が設けられた。壇上伽藍を取り囲むように配された七弁天が祠に祀られている。場所は川源流である山頂であったり山麓支流近くだったり様々だ。綱引弁天・尾先弁天・首途(門出)弁天・丸山(圓山)弁天・湯屋谷弁天・祓川弁天・嶽弁財天などの呼び名がある。弁天を祀る場所自体は昔から移動している(道路整備のため川を埋め立てた所もある)。
 山頂にて少し休んで大門に向かう。向こうから数名の登山者とすれ違った。中には外国人もいた。昔からのルートを歩きたいという感性は日本人よりも(日本びいきの)外国人のほうが強いのかもしれない。大門口に着く。かつては大門口にも女人堂があった。今はその跡だけが残されている。いろいろ考えながら歩いているうちに大門に出た。奈良の東大寺南大門に匹敵する立派な構えに感動する。現在の門は元禄元年(1688)に炎上した後、宝永2年(1705)に再建された。昭和61年(1986)弘法大師入定後1150年を記念し修復されたものである。両脇の金剛力士像は江戸時代の仏師康意(阿形像)と運長(吽形像)によるもので高野山を外敵から守護している。少し下界の風景を眺めて放心する。昔の人は何を考えてこの風景を眺めていたのであろうか?

大門から町へ引き返す。道路脇に弁天堂がある。昨日歩いた壇上伽藍や金剛峯寺(狭義)前を通り過ぎる。普賢院近くにある観光案内所に入りミニパフェで一服した。少し歩いて「一の橋」を渡ると「奥の院」聖域に入る。巨大な杉林の道を歩きながら「空海の生涯」について考えたい。
 加藤精一先生は空海を「引きずられない人」と論じている(「空海入門」角川ソフィア文庫124頁)。時の大学の教育方針に引きずられていない。:既成の仏教宗派に引きずられていない。:国家権力に引きずられていない。:経典の文字面に引きずられていない。:好んでいた書道に引きずられていない。:金銭にも引きずられていない。これに私見を付加する。密教の性的傾きに引きずられていない。:青年時代に立てた問題意識に引きずられていない。:最後に自分の生命にも引きずられていない。以下歩きながら数点をピックアップし順に検討することにしよう。

① 大学の教育方針に引きずられていない(立身出世を捨て大学を中退)。
 空海は774年6月15日讃岐国(香川県)佐伯家の三男として誕生した。幼名は「真魚(まお)」。幼い頃から聡明であった。桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父・阿刀大足(あとのおおたり)から詩・漢語・儒教などを学ぶ。15歳になり阿刀大足に誘われ都へ。当時の田舎では考えられない幸運であった。真魚は学問に精進。18歳になった彼は国の大学に入学する。しかし国家の官僚養成のための勉強には飽き足らなかった。大学を中退し僧の道に進むことを決意し修行に出る。

左手に久留米藩有馬家の供養塔を発見。静かに頭を下げる。

② 既成の仏教宗派に引きずられていない(既成宗教を全て超越し相対化)。
 真魚は20歳で僧侶になる受戒をした(この時点は私度僧)。22歳のときに名前を自ら「空海」に改めた。室戸岬に名の由来といわれる洞窟「御厨人窟(みくろど)」がある。洞窟の中で金星が自分の中に飛び込んできて宇宙と自分が一体化する神秘体験をした。そこから見える景色は「空と海」だけであった。この原体験をもとに「空海」と名乗る感性に脱帽する。延暦16年、空海は若干24歳で『聾瞽指帰』を執筆。「戯曲的な構成」で書かれた書物で、若き空海の「自分の好きなように生きる宣言」である(後に『聾瞽指帰』は内容は同じで序文だけ違う『三教指帰』に変えられた。序文には空海の伝記的なことが書かれている:その意味について末尾の注を参照されたし)。
 「三教指帰」(角川ソフィア文庫)冒頭(現代語訳)。「およそ文章を作るには必ずその理由があります。空が晴れ渡っている時には必ず太陽がそのおおもとに現れているように人が心に何かを感じた時にこそ人は筆をとってその思うところを文章で表すのです。(略)文章は人間が心の内に動く思いを外に写すものです。私はどうしても今ここで私の志を文章にして述べたいのです。」

「中の橋」の手前右手に明智光秀と石田三成の供養塔がある。
「御廟橋」の左手前には織田信長供養塔と豊臣家墓所がある。

③ 権力に引きずられていない(国家受戒を軽視・唐で世界的交流・国家との距離感)。
 修行を続けていた空海は久米寺に納められた『大日経』と出合う。「密教の教えは経典を読んだだけでは分からない」と確信した空海は唐へ渡る決意を固めた。31歳のとき空海にチャンスが訪れる。遣唐使として唐へ渡ることになった。804年7月6日長崎田浦を出港し唐を目指す船団には空海の他に最澄も乗っていた。唐へ入った後、空海は密教の理解に必要なサンスクリット語(梵語)も学びつつ密教の習得に励んだ。約半年後に唐の国師(真言密教を正式に受け継いだ僧)恵果に出会う。恵果は一目で空海の才能を認め自身の弟子にして密教のすべてを伝授する。3ヶ月で空海は師である恵果から伝法灌頂を受け「真言密教の師」と認められた。帰国も自由意思で判断した。806年に空海は日本に帰国する。帰国後、空海は太宰府にある観世音寺に2年ほど滞在した(国の赦しを得るまで)。空海が20年という国家ルールに縛られていたら阿倍仲麻呂のように唐の官僚として生涯を終えたのかもしれない。空海は809年に高雄山寺(神護寺)に入り翌810年に嵯峨天皇の赦しを得て真言密教の布教を開始した。816年、ここ高野山「金剛峯寺」を道場として開創した。ただ「私寺」である高野山には国費を求めなかった。全て寄進で賄った。823年に東寺の運営を嵯峨天皇から賜り「教王護国寺」と称して高野山と並ぶ真言密教の聖地とした。唐で世界的な交流を見てきた空海にとり日本国は自身の宗教的理想を実現するための手段(手立て)に過ぎなかったのであろう。にもかかわらず空海が平安国家との深い繋がりを維持したのは何故か?正木晃「空海をめぐる人物日本密教史」(春秋社)によれば、空海以前の密教(呪術的傾向の強い仏教)指導者が陥った「政治とのかかわりに失敗する場合の典型的なパターン」(特に玄昉・道鏡)を空海は良く認識していた。そもそも空海が留学した唐の密教自体が国家との間に密接な関係を築かなければ存続すら危うかった。その実質的な創始者である不空の思想(密教を国家に従属させること・性にまつわる領域など反社会的な面は細心の注意を払い排除すること)は帰国後の空海の行動を考える上で極めて重要である。布教開始にしても道場開創にしても空海は嵯峨天皇との良い関係を維持している。真言密教が邪教扱いされないよう、平安の国家権力に付かず離れず「程よい距離感を作り出そうとする」空海の強い意志が感じられる。

御廟橋から先は本当の聖域。服装を正す。写真撮影は禁止されている。

④ 青年時代に立てた問題意識にも引きずられていない(開かれた学校を開設)。
 晩年57歳時の著作『秘蔵宝やく』は『三教指帰』と(内容は深化しているが)基本的な構想はほぼ同じである。「従来の思想を体系化し自分の価値観で序列をつけずにはいられない」空海の激しい息遣いが感じられる。しかし空海は(宗教的信念は一貫しているが)晩年になって教育に関する思想を改めた。儒教や道教の価値をも認めて、誰でも学べる開かれた学校「絑芸種智院」を創設したのだ。これこそ「教育者」としての空海の偉大さを表現している出来事だと私は感じる。

弘法大師「御廟」に到着。言葉が出ない。

⑤ 自分の生命にも引きずられていない(死期を悟り老害をさらさず入定)。
 835年、空海は自らの死期を悟り、弟子たちに遺言(遺誡)を残す。同年3月21日(旧暦)空海は62歳で「入定」した。真言密教では「奥の院」にて永遠の禅定に入っていると考えられている。921年に醍醐天皇から「弘法大師」諡号が空海に贈られた。身体的訓練をして加持祈祷を行い真言を唱える呪術的傾向の強い真言密教。それは必ずしも誰もが親しめる考え方ではない。以降の弘法大師信仰は「真言密教」というよりも「空海教」と言えよう。空海は自身を神格化することなく死んだ。自然を受け入れたのだ。世間(特に近世高野山)が彼をいかに神格化しようと空海自身は1人の人間である。自らの死期を悟り老害をさらさず後世の庶民を善導して死んだ偉大な人間なのだ。

私事を述べる。私は自分が尊敬心を感じる公的存在に自分の資産の一部を無償又は低額で提供するようにしている。時間であったり労力であったりもする(若い頃は身体的貢献として献血もせっせとしていたけど貧血のために迷惑をかけて以降は自粛した)。「贈与」は相手のためにしているのではない。心から尊敬を抱ける対象に対して自分の財産を「布施」することで煩悩にまみれた自分の中に「温かい何か」が育まれていることを感じるのである。日本で最も尊敬心を抱ける存在として頂点を極めていたのが弘法大師空海であった。真言密教を信じていなくても空海(お大師様)は尊敬する。そういう人は日本中に満ちていた。であるからこそ宗教宗派を超えて高野山金剛峯寺は宗教的聖地となった。奥の院は「日本の総菩提所」となった。公家・武家を問わず、高野山の檀家になることは各家のステータスになり、それは高野山にとって莫大な収入に繋がった。前回述べたとおり近世以降の高野山は綺麗なだけの存在ではなかった。俗世にまみれた薄汚い一面を有していた。私もそんな高野山には全く魅力を感じていない。日本各地に残る弘法大師伝説は高野聖が布教のため流布した物語に過ぎない。しかし(999の「否定」を重ねた上でなお)弘法大師空海には「肯定」したい何かがある。それは「超人的存在:仏としての空海」ではなく「実在した1個人としての空海」の書いた著作(現代語訳:当然)を読んで初めて実感できること。私が贈与する相手は「繋がりを持つことにより自分の中に温かい何かを育んでくれる何か」である。空海は間違いなく加わっている。「自分の生きている意味」を味わい「死への恐怖を薄めてくれる何か」として自分の中に生き続けていてくれると感じられる。今回「女人道」の後方を歩いてくれた健脚の友のように(同行二人)。

奥の院に別れを告げる。小田原通りで昼食をとり普賢院で荷物を受け取って帰路に就く。千手院橋バス停でりんかんバスに乗り「ケーブル高野山駅」に着いた。ケーブルカーは圧倒的な高低差をものともせず下ってゆく。少しずつ高度が下がり、同時に高揚していた私の意識も同時に少しずつクールダウンされた。でも今回の旅で少しだけ感得された「同行二人」の感覚は、齢を重ねた私を長く長く守ってくれる気がする、きっと。私の高野山の旅はこうして終わりを告げた。(完)

* 若き日の空海が「四国の山野で修行した」というのは真言密教で信じられている定説ですが、本郷和人・島田裕己「鎌倉仏教のミカタ:定説と常識を覆す」(祥伝社新書)には次の重要な記述があります。聖地高野山でホットになっていた私も若干クールダウンできました。
S「空海は王義之のような中国の書家を手本にしていました。当時は日本にも王義之の書の現物があったようです。しかし都にしかなかった。それを手本にできたということは空海は都にいたことになります。となると空海が四国の山中で修行していたという経歴はあとになってからつくられたものではないでしょうか。私は修験道の山伏たちが自分たちの祖である空海の物語をつくりあげたと考えています。」H「そうか、密教はのちに山岳信仰と結びついて修験道を生み出していくことになります。その修験道からあとづけで物語がつくられたのか。」S「修験道の人たちからすれば空海は自分たちのように山野を修行していた・しかも最澄のようなエリートではなく庶民など”雑草”出身で努力したというイメージを欲したのだと思います。空海は若い頃に対話に基づき仏教の優位性を証明する『聾瞽指帰』を書いています。それが後にタイトルだけ『三教指帰』に変わる。内容は同じで序文だけ違うのですが『三教指帰』の序文に空海の伝記的なことが書かれています。私はこの序文は偽書であってそこで経歴が捏造されたとみています。」H「十分考えられますね。」

前の記事

ちょっと寄り道(高野山2)