ちょっと寄り道(高野山2)
2日目は雨の中を金剛峯寺(狭義)と壇上伽藍を巡って宿坊に泊まりました。
(参考・司馬遼太郎「街道をゆく№9」朝日文庫、五木寛之「百寺巡礼」講談社文庫、「ブラタモリ16」角川書店、永坂嘉光「巡礼高野山」新潮社、竹内孝善「弘法大師空海の寺を歩く」JTBパブリッシング、「高野山参拝旅完全ガイド」講談社、宮坂宥勝「密教経典」講談社学術文庫)
2日目の朝。軽い朝食をとり出発する。歩いて紀伊清水駅に行きたかったのだが雨が降っている上に荷物もあるので、ルートインホテルにタクシーを呼んで橋本駅へ行き南海高野線に乗る。
橋本駅を出た列車は逆方向(東側)に進行し、紀ノ川を渡って西側へUターン。九度山を過ぎると高度が段々高くなってゆくのが判る。最大斜度は50パーミルにも達する。かつての横川軽井沢間の66・7パーミルほどではないにせよ列車にとっては極めて過酷な傾斜である。勾配を少しでも緩くするために線路は緩やかなカーブを重ねて少しずつ高度を上げてゆく。極楽橋駅に到着した。ここで南海「鋼索線」(ケーブルカー)に乗り換えて高野山駅に上ることになる。
高野山ケーブルカーは終着駅の極楽橋駅と山上の高野山駅を結んでいる。昭和5(1930)年に開通した国内有数の歴史を誇る老舗ケーブルカーである。全長は0.8Km、高低差は328m。東京タワーとほぼ同じ高さを約5分で一気に昇る。この高野山ケーブルカーは「交走式(つるべ式)」で1本の長いケーブル両端に車両が取り付けられている。片方の車両が引き上げられると片方の車両が下りてくる仕組みである。比較的小さい動力で2つの車両の昇降をすることが出来る。
高野山駅に到着。駅舎が凄い。昭和5年開設時の駅舎が(改修を施され)使用されている。目前はバス操車場になっていて中心部に向かうバスが待機していた。最初の停留所が不動坂口の女人堂。計画では女人道を廻る予定だったが雨なので明日に延期する(雨の女人道を歩くのは危険だ)。
千手院橋バス停で降車。近くにある宿坊「普賢院」に出向く。山門が立派である。この素晴らしい塔頭寺院に泊まれるとは!胸が高まる。今日はあいにくの雨。しかも寒い。とても5月とは思えない。高野山は標高1000メートル近い高原だ。夏でも涼しいという(軽井沢みたいな地形と気候)。冬の寒さは言語を絶する。下着を2枚重ね着し長袖シャツの上にウインドブレーカを羽織る。
明治以前「金剛峯寺」とは高野山全体を指す呼称であったが、神仏分離後「青巌寺」だけを特に「金剛峯寺」と呼ぶようになった。かつての高野山には学侶・行人・聖の区別があり、しばしば派閥的争いが生じた。①学侶:純粋な真言密教の教義学業の修行に努めた僧衆。貴族の子弟も多くいた。代表寺院は青巌寺。②行人:修験的傾向が強く、学侶が法会などの行事を行うときに裏方で助力。「承仕」という灯明・線香などの雑務や、夜間の堂宇の見張り、諸堂建立や寺領・荘園管理、外敵から高野山を守る僧兵もした。代表寺院は興山寺。③聖 :行人から派生した僧など。隠遁して修行した僧衆なども含む。勧進を求め全国を行脚して回った。代表寺院は大特院。以下、順に論じる。
1「学侶」
真言密教の教理的展開について考える。空海は真言密教を創始したが、それが現代までそのまま続いているのではない。まず東大寺との関連が重要である。東大寺に隣接して「空海寺」がある。空海が草庵を営み、自ら彫刻した秘仏「阿那地蔵尊」を本尊としたのが寺の起こりとされる。境内に東大寺の歴代僧侶と寺族の墓がある(「奈良1」参照)。八宗兼学とは南都六宗の華厳・法相・倶舎・三論・律・成実に真言宗・天台宗を合せた八宗を兼ねて学ぶことをいう。転じて「一宗一派にかたよらず仏教思想を全て学ぶ学問的態度」を指す。弘仁元年(810年)空海は高雄山寺に身を置いたまま東大寺の別当に就任した。東大寺は(新興勢力である最澄の比叡山天台宗に圧倒されて)「旧勢力」と認識された巨刹である。この巨大な寺を当時無名の僧である空海が別当(長官)に任ぜられたのは異例のことだった。京都北嶺(延暦寺)の脅威におびえていた南都の長老たちは唐から最新の学問を持ち帰った空海を歓迎した。東大寺別当を4年ほど務めた空海は東大寺境内に真言院(今の空海寺)を建立し(奈良時代以来の「華厳」の伝統を生かしつつ)密教的要素を加えた。大仏の御前で密教経典「理趣経」が読経されるようになり初等課程では「四度加行」(密教修行)が必須の修行となった。こういった経緯もあり空海は「秘蔵宝やく」において天台教学(第八住心)よりも華厳宗(第九住心)を上位に置付けたのである(当然ながら最上位は真言密教:第十住心)。
次に浄土思想との関連が重要である。古来より山岳を神域とする民間信仰があった。特に紀伊半島には吉野・熊野に繋がる古代からの山岳信仰ネットワークが形成されていた(「吉野」参照)。高野山が「神の住まう浄土」として認識されるのは自然なことであった。空海の後継者となった真然大徳は元慶7年(883)陽成天皇に対し「高野山は『前仏の浄土・後仏の法場』で諸天日々に擁護し星宿夜々に守護し給う・ここに歩みを運ぶ者はいかなる罪障も消滅する」と説いた。「前仏の浄土」は釈迦如来の浄土であり「後仏の法場」は弥勒仏の説法場所を指した。平安中期になると阿弥陀如来の浄土信仰が高野山に押し寄せる。天台僧の恵心僧都(源信)が寛和元年(985)に著した「往生要集」は「いかにすれば極楽往生できるか」を明確に説くもの。臨終の際、阿弥陀如来が来迎して魂を極楽浄土へと導くとする信仰は事後「来迎系阿弥陀像」を多く制作させる要因となった。源信の筆とされる国宝「阿弥陀聖衆来迎図」が有志八幡講の所蔵として高野山に伝わる。阿弥陀信仰の形跡は近年まで残っており、江戸時代の高野山内寺院の本尊の約30%が阿弥陀如来像とされる。
高野山は弥勒信仰と大師信仰が交わる独自の信仰形態も示した。釈迦入滅後五十六億七千万年後に下生するまで衆生を救済する弥勒信仰は高野山にも影響を及ぼした(九度山の「慈尊院」信仰はこの流れ)。弥勒仏と弘法大師を同体とする信仰が生まれ高野山は「弥勒の浄土」とされた。藤原道長は高野山に参詣し「死しては極楽往生を願い・弥勒仏下生時は法華会の聴講を願い」奥の院に法華経と理趣経を埋納したと伝わる。以後も皇族・公家・武家などにより多数の埋経や納骨納髪が行われた。これが世人の納骨信仰や墓石建立へも繋がり「奥の院」信仰へと発展していく。
2「行人」
巨大な中世組織となった高野山は単なる宗教的存在ではなかった。多くの荘園がそうであった如く高野山は比叡山に匹敵する経済力軍事力を誇示した。「紀州攻め」と呼ばれる織田信長・羽柴秀吉による紀伊への侵攻は中世から近世へ移行するために不可欠の事象だった。特に天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めは重要である。信長・秀吉にとって紀伊の戦いは単に一地域を制圧するか否かの問題ではなかった。「天下人を頂点とする中央集権思想」に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地を無くせるか否かの戦いだった(「中世高良山の終焉」を参照されたし)。寺社の体現する「分権的思想」そのものが天下人への脅威だった。当時、特権を得た寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。警察権は認められず徴税権も及ばなかった(不輸の権・不入の権)。九度山の「丹生官省符神社」なる名称が象徴している。有力寺社は政治の中枢から遠くない場所にありながら「荘園」として守られ商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。特に紀州高野山は高度な軍事力をも有する典型的な境内都市なのであった。
3「聖」
高野山の聖は特に「高野聖」と呼ばれ諸国を遍歴し勧進を行うとともに護符や薬草などを売る行商も行った。聖は民衆に高野山への布施や納骨を勧めて高野山経済を底辺から支えた。活動範囲は庶民から貴族皇室に至り、活動で得た浄財の一部を高野山へ納め一部を自身の収入とした。弘法大師信仰を全国へ広めるため不可欠の存在だった(全国の弘法大師伝承は聖の活動成果)。聖の活動の結果、高野山は「弘法大師入定の地」「弥勒菩薩の浄土」と知れ渡り極楽往生を願う多くの者が高野山を目指した。12世紀末になると「東大寺再建大勧進」で有名な俊乗坊(重源)が全国的な聖集団を組織させた(「奈良1」参照)。「勧進」には乞食的意味合いもあった。五木の子守歌に次の歌詞がある「おどまかんじんかんじん、あんしとたちゃよかしゅ」。歌い手の実家は貧しい。我々は「かんじん」であり雇われた主人は「よか衆」(お金持ち)。「かんじん」とは物乞いのこと。本来は托鉢僧であるが時代が下ると乞食まがいの者を指す差別的な言葉になった。高野山においても彼らの集まる場所は(尾根筋の立派な寺院ではなく)13の谷(「別所」)の粗末な仮小屋であった。
「金剛峯寺」(旧青厳寺)の建造物は文禄2年(1593)豊臣秀吉が母堂の菩提を弔うために寄進したものである。ただし秀吉時代の建物は焼失しており、現在の建物は文久3年(1863)再建されたものである。大広間の襖は狩野方眼元信による。上段の間や奥書院など皇室専用の部屋もある。「柳の間」は文禄4年(1595)豊臣秀次が自害を強いられたことで有名である。
別殿に繋がる渡り廊下を歩く。右手奥に「阿字観」道場がある。阿字観は事後の仏教に大いに貢献しているので少し論じたい。阿字観は誰にでもできる密教の瞑想法である。自分の中に仏を感じる観法とされる。①数息観:腹式呼吸をしながらリラックスし息を吐くとき「ひとーつー・ふたーつー、みっつー」と呼吸を数える。吐き出した空気が道場から外へ出て遠くの山野まで流れ出ていく・その山野の新しい空気が道場から自分の体に入り込んでくるのを感じる。②月輪観:金剛頂経に「我自心を観るに形月輪の如し」とある・本尊を見つめ目を閉じて心に満月を思い浮かべる・それが消えたら再度目を開いて本尊を見つめ目を閉じて月を思い描く・自分が道場を離れ地球を離れ宇宙に包まれていくように感じる。③阿字観:声・字・実相の3段階がある・呼吸の時に真言として「阿」を唱えながら観法する・次に「阿」の字そのものに大日如来の光明としての月輪をイメージし両者を一体化させる・そして「不生不滅」という生命の実相を感じる・生まれる以前のものは壊れることもなく死ぬこともない・死んだ後も同様・私たちの生命は切り離されているのではなく宇宙の生命は1つである・この1つの宇宙を感じるのだ。私は「梅林寺(久留米)の座禅体験」にて瞑想を少し学んだ。老師が強調されていたのが数息観だった。禅宗(臨済・曹洞)は密教の「呪術的な要素」を極力排除している。しかしながら阿字観に代表される瞑想法は尊重しているのだ。大事な観点だと思う。
最後に台所の大釜を拝見する。黒く煤けた天井や壁に長い歴史を感じて感銘を受けた。
金剛峯寺の門を出て右折。蛇腹の道を通って「壇上伽藍」に向かう。蛇腹路(じゃばらみち)とは壇上伽藍の入り口から東塔の東側付近まで伸びる小道である。空海が壇上伽藍を龍に見立て、現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えた際に、この小道がお腹付近にあたるため蛇腹路と呼ばれるようになったとのいわれがある。 壇上伽藍は空海が渾身で作り上げた密教世界。空海が高野山を開創した際、最初に諸堂を建立したのが壇上伽藍とされる。伽藍そのものが密教空間(立体曼荼羅)をあらわすとされる。司馬遼太郎によると、こういう寺院形態は世界でも高野山だけなのだそうだ。国費をもって造営された東寺と異なり、金剛峯寺は空海の私寺なのであった。
19もの諸堂が建ち並ぶ。右手に東塔・三味堂・大会堂・愛染堂を、左に不動堂を観ながら歩いてゆくと正面に「根本大塔」が現れる。「根本大塔」は金剛峯寺のシンボル。本尊は胎蔵界大日如来である。巨大な屋根は16本の柱で支えられており各々に金剛界の菩薩が描かれている。四面の壁には真言密教の八祖像が描かれている。塔の高さは約48・5メートルあり、その巨大さが宗教的正義を表現している(これは東大寺にも通じる)。下層が四角・上層が円形という「多宝塔」は日本で初めて作られたものという。これこそ空海が日本において現出したかった密教空間なのだ。
「大日経」の言葉に触れる。大日経で最も有名なのは「因とは菩提心である・根とは大悲である・究竟とは方便である」というフレーズだ。良く生きようとする心を出発点に(発菩提心)生きとし生けるものに対する慈悲の気持ちを持ち(社会性)そのための具体的な手立て(技術)を磨くこと。真言密教に限られる話ではなく「人がより良く生きようとする思想」に広く妥当する観点である(アリストテレスも同じようなことを言っている)。密教思想を現代的に生かすなら、こういう解釈も許容されるべきだと私は思う(宮坂宥勝「密教経典」講談社学術文庫を我田引水)。
空海は室戸岬で「宇宙と自分の一体性」を感得する宗教体験を得たという。これを神秘的に解釈する必要はない。赤瀬川源平「宇宙の缶詰」なる作品がある。缶詰は数百グラムの内容物を封じ込めていると普通は考える。しかし見方を変えれば缶詰は宇宙を封じ込めているのである。この見方を広げると、人体は口から始まり胃腸を経由し肛門へと至る1本の管である。ウンコは1本の管を旅してきた内臓感覚の象徴だ。ウンコは「大いなる宇宙からの便り」とも考えられる(布施英利「わかりたい!現代アート」)。私は「密教の呪術的な部分」は判らないが、空海が感得したという「宇宙と自分の一体性」は現代アートに通じる。それこそが自分にフィットする空海思想の解釈である。
私が壇上伽藍で最も逢うのを楽しみにしていたのは「孔雀堂」。この堂は正治元年(1199年)東寺長者の延杲(えんごう)が祈雨の修法を成就させた功績により奉安されたと伝わる。大正15年(1926年)に金堂より出火した大火によって焼失したが昭和58年(1983年)の弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業にて再建された。旅を準備するにあたり私は久留米鳥類センターに赴き孔雀をしばし眺めた(久留米の鳥類センターは日本で屈指の孔雀繁殖を誇る)。インドクジャクは(美しい姿にかかわらず)害虫や毒蛇を食べても平気であることから災厄や苦痛を取り除く功徳があるとされた。毒を持つ生物を食べるが故にクジャクは「煩悩の象徴たる三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏」という解釈が一般的になったそうである。南無。
もうひとつ私が強く意識していたのが「御社」であった。神仏習合の高野山金剛峯寺はいかにして明治初年の神仏分離(強く言えば廃仏毀釈)を乗り切ったのか私には強い関心があった。
日野西眞定氏の論文「高野山神仏分離史料とその解説」には次の記述がある。
明治2年11月に堺県は金剛峯寺に宛てて「壇上両明神社の御神体改めについての御達」を出し両明神社(丹生明神・高野明神=現在の「御社」)に大日像を安置し大日堂と改号して仏堂の様式に建て替えることなどを命じた。明治4年5月に金剛峯寺は両明神社を大日堂に変えたことを回答している。金剛峯寺は命令に従って大日如来を祀る仏堂に変えたが丹生都比売神(丹生明神)と高野御子神(高野明神)の神像を堂の奥に残していたようである。高野山には他にも小さな神社が存在したが、同様に表向きは仏堂に変えた。そして明治12年に壇上の両大日堂を両明神社に復帰させ、仏堂に変えていた他社も神社に復帰させた。こうして高野山は明治初期の「神仏分離」を乗り切ったのである。
こうして残された「御社」が今自分の眼前にある。感慨をもって私は見つめた。御社の拝殿として建立されたのが山王院だ。山王院は「地主の神」を「山王」として礼拝する場所とされる。
このようにして壇上伽藍をじっくり拝観していたら、あっという間に時間が過ぎる。いつの間にか午後1時を過ぎていた。伽藍を出て道沿いにある食堂で遅い昼食をとる。南無。
食後「霊宝館」を訪れる。博物館的な位置づけの施設であり、廃仏毀釈による散脱を免れた宝物を多く収蔵している。が、拝見したら期待していた国宝クラスの仏像が極めて少ない。その理由は後から判った。奈良国立博物館で行われている「空海展」に国宝クラスの寺宝が多数出品されていたのである。現代の有名寺社において宝物を博物館等に貸し出して対価を得ることは参拝者の減少した寺社経済を維持するための貴重な方法なのだ。こればかりは仕方がない。「高野山大学」を訪問する。「学侶方」の伝統を引き継ぐ学究機関だ。雨の中、少し学内を歩かせていただきお目当ての図書館を外側から拝見した。武田吾一設計になる有名な建築物。高野山で初めての西洋建築物とも評価されている(1929)。「高野山参拝旅完全ガイド」(講談社)で内部写真を確認しているので、目の前の建物の内側に広がる静寂の空間を多少イメージできた。「霊宝館」と「高野山大学」は当然ながら近代化過程のなかで生まれたものである。慶応4年の太政官布告・明治3年の大教宣布により仏教界は大打撃を受けた。特に高野山は明治4年の版籍奉還で寺領2万1000石の返還を強いられ、広大な山林も失ったのである。さらに明治21年の大火で寺院や町家の多くが焼失した。そのため明治24年に子院の数を約5分の1に減らし、寺宝の価値を世間に知らしめる努力を開始せざるを得なくなった。これらを受け、宝物を保管展示するため大正10(1921)年に開館したのが霊宝館であり、打撃を受けた仏教(真言密教)教義を近代化するために開学されたのが高野山大学なのである。
大学を出て書店と土産物店を徘徊する。書店で(当然のことながら)空海と真言密教関係の書物を数点・土産物屋では高野山ならではのフィギュア(五鈷杵)を購入した。土産物屋にてサプライズがあった。昭和20年代に発刊されたと見受けられる書籍「高野山」(2冊)が残っていて(そもそも売り物ではなく何かの案内書のようである)これを無償でいただいたのだ。古いもの好きの私は数千円出しても欲しいものだったので「無料です・どうぞ」と言われて驚愕。有り難い。南無。
そうこうしているうちに午後4時を過ぎた。宿坊「普賢院」に戻る。
宿坊といっても泊まる部屋は普通の旅館と変わりはない。広くて美しい現代風の空間。本当に快適である。夕食が素晴らしかった。通された座敷が凄い。渋沢栄一が揮毫した「総親和総努力」と記される書が見事だった。精進料理は派手さは無いけど、野菜や豆腐を丁寧に調理しておられ、見た目も良くとても美味しかった。今日は雨に降られたけれど良い一日。健康睡眠。