ちょっと寄り道(高野山1)
昨年5月に高野山詣でを思い立ちました。高野山は過去2回訪れたことがありますけれども、歴史の観点を固めての散歩は今回が初めてです。初日は橋本に泊まって九度山を廻りました。
(参考文献:司馬遼太郎「街道をゆく9」朝日文庫、五木寛之「百寺巡礼第6巻関西」講談社文庫、NHK「ブラタモリ16」角川書店、池波正太郎「真田太平記(八)紀州九度山」新潮文庫など)
新大阪駅で新幹線を降りる。御堂筋線に乗り換えて「なんば」に向かった。南海なんばビルについては以前少し論じたことがある(「御堂筋」参照)。しかし私が実際に南海電車に乗るのはこれが初めてだ。3階改札口で長年の友と待ち合わせ。彼は東京に住んでいるのだが今回の高野山の旅に付き合ってくれるのだ。感謝。南海電鉄高野線に乗り「橋本」へ向かう。高野線は、日本有数の宗教都市:高野山への参詣輸送路線として作られた。終点の極楽橋から鋼索線(ケーブルカー)に連絡している。かつては南海本線(和歌山に通じる)に対する「支線」的な存在だった。が、宅地開発による沿線人口の急増や泉北高速鉄道線との相互運転による泉北ニュータウンから大阪市内への通勤客輸送等の増加により、現在では南海「本線」を上回る輸送人員を有する程の「南海の主力路線」へ発展していると聞く。実際、乗車してしばらくは住宅地が連続する。山間部に入って田畑がみられるものの「林間田園都市」なるニュータウンの駅もあって、この路線が大阪への通勤・通学路線として重要な役割を果たしていることが良く判る。考えているうちに列車は橋本駅に到着した。
私は高野山に2度来ている。いずれも大型バスで直接山上に向かった。今回は可能な限り昔からのルートを踏襲して登ることにした。昔の高野山詣りでは九度山の慈尊院弥勒菩薩と結縁し罪業を流してから山上へ登るのが本参りとされた。この手順を辿るのだ。まずはタクシーに乗って「ルートイン橋本」へ。チェックイン時刻前なのでフロントに荷物を預け気分よく歩き出す。
371号線を右折し橋本高野橋で紀ノ川を渡る。紀ノ川は当地における物流の大動脈だ。全国から高野山に詣でる旅人には舟で九度山に着き、そこから歩いて登った者も少なくなかったようである。筑後川と同様、普段の紀ノ川は水量が少なく、とても穏やかに映る。しかし氾濫したときの紀ノ川は手の付けられない凶暴な川なのであった(少し脳内にイメージする)。13号線を超えると南海電鉄「紀伊清水」駅がある。ここから普通電車に乗り「九度山」で下車した。九度山なる地名は「空海が月に9度も母のいるこの地に下ってきた」との伝承にもとづくものである(後述)。
駅を降り、丹生川を渡って左手の道を歩いてゆくと、コンクリート製駐車場の下に降りてゆく店舗入口がある。「グラタンカフェ」という。川に面したコンクリート壁を利用した店の作りが面白い!窓外の丹生川が大きく湾曲している眺めも見事だ。美味しい牡蠣グラタンを堪能。
道路に出て13号線を左手に進む。「真田庵」の裏口から中へ入る。正式名称は「善名称院」(高野山の末寺)。山号は伽羅陀山。真田昌幸信繁親子の蟄居草庵跡と伝わる。昌幸草庵の伝承のあるこの地に地蔵菩薩を安置した一堂が創建されたのが当院の始まりとされる(信繁が建てた昌幸の供養塔の周りの森を松の木だけ残して伐採し当院を建立したとの説もある)。関ヶ原で西軍に属して敗れた真田昌幸信繁父子は高野山に配流となる。当初は真田所縁の「蓮華定院」に入った(3日目に触れる)。その後、この周辺に軟禁された真田氏の庵があったのは間違いないようだ。
当地は高野山の「政所」(行政機関)たる色彩が強いところであった。徳川政権の意向を受けた高野山は真田を「罪人」として扱った(死刑にならなかったのは徳川方についた長男信幸と妻の父である本田忠勝の嘆願によるものである)。九度山が「軟禁の地」に選ばれた秘密は地形にある。この地は両脇を川(紀ノ川と丹生川)に挟まれているので容易に脱出できないのだ。とすると大坂の陣にあたり信繁がここを脱出できたのは何故かが問題になる。軟禁の責任者(高野山の者)に豊臣方を応援しようと内通した者がいたとの見方もありうる。小説だから学問的根拠にはならないが、池波正太郎「真田太平記(8)紀州九度山」(新潮文庫)によると、軟禁の度合いが強かったのは配流初期だけであり、後は自由度が高く他の地域にも比較的自由に出入りできたようである。
丹生川を渡って西へ進む。ゆるやかに湾曲した狭い道を1キロ近く歩くと「慈尊院」に着く。紀の川沿いにある船着き場の跡らしき処から拝見する。寺領から運ばれてきたコメ他の物資はここから陸揚げされたようだ。現在は全く使われておらず危険なので一般人が川べりに降りるのは禁止されている。近くに「下乗石」がある。駕籠や馬に乗ってきた人(高貴な人)も「ここから先は駕籠を下りて自分の足で歩きなさい」という趣旨である。神聖な領域であることを示す意味がある。
川と反対側に石畳の道が整備されている。道の先にある立派な塀の建物が「慈尊院」だ。門から見える多宝塔の姿に「女人高野」の香りがする。この寺は初期高野山の行政事務を司っていたところ(政所)である。開基に関し次の言われがある。空海が真言密教の道場地を求め歩き大和国宇智郡に入ったとき、猟師姿に扮した地主神(狩場明神)から高野山の存在を教えられた。狩場明神は使いである2匹の犬に空海を高野山まで導かせた。高野山の素晴らしさを認識した空海は弘仁7年(816年)嵯峨天皇に乞い高野山を賜った。参詣の要所に当たる山麓に表玄関としての伽藍を創建し庶務を司る政所(寺務所)と宿所を置き冬期避寒地の機能をもたせた。ここに高齢となった空海の母(阿刀氏)が讃岐国(善通寺)から空海に一目逢おうとやって来た。しかし高野山内は「女人禁制」なので麓にあるこの地に滞在する他ない。九度山なる地名は「空海が月に9度も母のいるこの地に下ってきた」という伝承による。「慈尊院」名称が文献に現れた最も早い例は三条実行(藤原実行)の『鳥羽上皇高野御幸記』とされる。天治元年(1124年)鳥羽上皇が当地に行幸し、慈尊院の由来について尋ねた。空海母は承和2年(815年)に死去したが、そのとき空海は弥勒仏の霊夢を見て廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀った。弥勒を別名「慈尊」と呼ぶことから、これを祀る政所が「慈尊院」と呼ばれるようになったそうである(ちなみに真言密教は大日如来だけを崇拝するのではない・2日目に触れる)。空海母は弥勒仏を熱心に信仰したため「入滅(死去)して本尊に化身した」との信仰が盛んになった。山上が女人禁制なので「女性は山下の慈尊院に参拝する」逸話が後で形成されたようである。「女性所縁の寺」ゆえ絵馬は乳房型であり絵馬に布製の乳房が付いている。
天文9年(1540年)紀ノ川氾濫によって慈尊院の堂舎は大半が流され、弥勒檀(現在地)に移転された(昔はもう少し川沿いにあったようである)。現在の慈尊院は「城郭の如き」立派な石垣の上に建立されている。さきほど駅から歩いて渡ってきた紀ノ川は穏やかな感じを受けたのだが、大雨によって氾濫した紀ノ川は極めて恐ろしい存在だったであろう(筑後川も同じだ)。
境内の南側にある石段を上る途中に「町石」(百八十町石)の第180番目がある。町石は「数がだんだん少なくなることによって高野山が近づいていること」を実感できる見事な仕掛けだ。石柱の頂が五輪の形をしており石柱の表面に梵字(下から地・水・火・風・空を表わす)が刻まれている。全てが高野山信仰に篤い高家信者の寄進による(天皇家の寄進が2基・鎌倉執権北条家のものが2基ある)。稲荷「鳥居」や春日「灯篭」に匹敵するのが高野山「町石」なのだ。
南にある119段の石段を上りきると「丹生官省符神社」である。弘仁7年(816)創建と伝わる。官省符の「官」は太政官「省」は民部省を指す。当然のことながら丹生官省符神社と慈尊院は(神仏習合時代は)一体であった。昔は石段上に仏教関連施設も並んでいて明神社とされた。官省符荘とは「その荘園の持ち主は国家に租税を納めなくて良い」ことを太政官官符と民部省省符により認められた荘園のことをいう。この特権を得るためには時の権力者に対し相当の政治工作をする必要がある。中世高野山は高度の軍事力や警察権を有する世俗的な存在だった。それゆえ中央集権を志向する織田豊臣政権は高野山を(比叡山と同様)攻撃の対象とした。これに対し徳川政権は分権志向であり従前勢力の所領を安堵したので寺社も武家も徳川に従った。こうして政治が安定した。
司馬遼太郎によると、近世高野山領は極めて税率が高く8割を超えていたところもあるらしい(江戸時代の税率は普通は5割)。司馬氏は「空海の末弟たちがその領内の経済生活に対して慈悲の心をもって臨んでいたとは決して言えそうにない」と断言している(同感)。高野山の過酷な支配に対し逃散した者に対しては「逃散した者が万一領内に戻った場合一拍といえどもさせてはならない」との無慈悲な通達をしていた(「街道をゆく9」227頁)。徳川政権は高野山領に2万1000石もの寺領朱印高を認めた。官省符荘の農民は高野山に帰属した。司馬氏は「その荘民としては誇るべきことなのか?嘆くべきことなのか?」と問い「おそらくは後者であったであろう」とクールに断じている。当時の寺院は荘園からの「アガリ」を収入源として生計を立てた。中世寺院は領民から恐れられないと示しがつかない存在であった(足元を見られたら権益を奪わる)。高野聖が流布した「弘法大師伝説」に引きずられて中世および近世の高野山を過度に美化しない方が良さそうである。
丹生官省符神社右側の道を降りると次の町石(179町石)がある。町石1つ1つに様々な菩薩の姿が化身しているとされる。町石は約108メートル毎に設けられる。したがって多くの場合に次の町石が見えることになる。次に見える町石の存在こそは参詣者を高野山の山上に誘う見事な仕掛けだったのである。西側から慈尊院に入り東側から抜け来た道を戻る。
「道の駅・柿の郷・くどやま」に立ち寄って一休み。丹生川に架かる橋を渡って九度山の微高地に入る。細道に連なる古い街並みの風情が良い。左に「真田ミュージアム」があった。入場料500円。14年間に及ぶ九度山での真田幸村(信繁)の蟄居生活を映像とパネルで紹介している。数年前に放映されたNHK「真田丸」出演者(草刈正雄・堺雅人など)の顔が懐かしい。
真田庵正門と隣の蕎麦屋の前を通って駅に向かう。左手に「真田紐」の工房があって観光客が紐の体験をしていた。面白そうだったのだが客人が多かったので入店は控えた。右手に真田の抜け穴と称される古墳跡がある。大阪城南側にも同様の伝承があった(「上町」参照)。当時から大衆に人気があった真田には多くの逸話が生まれているようだ。いこい茶屋(まちなか休憩所)を過ぎると道は右折。川沿いの建物は崖ぎりぎりに建てられている。吉野づくり(「吉野」参照)を思い起こさせる。信号を超えると上方に九度山駅が見えてきた。20分ほど下り電車を待つ。途中、目の前を南海の特急「こうや」が駆け抜けていった。普通電車に乗り橋本駅へ戻る。
タクシーで「ルートイン橋本」へ帰り、風呂に入ってしばし休憩。夕食は近くの商工会議所の中にある良い酒場「Mitu食堂」で友と楽しい夕食。ホテルに戻って健康睡眠。(続)