歴史散歩 Vol.168

ちょっと寄り道(銀座京橋)

「東海道歴史散歩」最終日は築地を朝散歩した後、銀座・京橋を通り日本橋まで歩きました。
(参考文献:地図物語「あの日の銀座」「あの日の日本橋」武揚堂、岡本哲志「銀座:土地と建物が語る街の歴史」法政大学出版局、三枝進「銀座・街の物語」河出書房新社、赤岩州五「銀座歴史散歩地図」草思社、東京都歴史教育研究会「東京都の歴史散歩:下町」山川出版社、内藤昌「日本人はどのように建造物をつくってきたか・江戸の町」草思社、初田亨「東京・都市と建築の130年」河出書房新社、松田力「東京建築さんぽマップ」大内田史郎「東京名建築散歩」エクスナリッジ)

午前5時に目が覚めた。すぐ熱めのシャワーを浴びて身体を目覚めさせる。5時半に「東急ステイ新橋」を出て朝の散歩を始める。新橋から銀座を抜けて築地まで歩くことにした。
 旧東海道を進むと高架駅(@ゆりかもめ)が上方に覆いかぶさってくる。更に歩くと眼上には首都高速道路があり右脇には「新橋」石碑がある。汐留川に橋が架かっていた痕跡だ。江戸時代、銀座は四方を水で囲まれた島であった。車両の行き交う昭和通り(幅約44メートル)が歩行者を邪魔する。「新橋と銀座の繋がり」は意図的に遮断されているのだ。後ろを振り返ると左手先に復元された旧新橋駅の駅舎が見える(約200メートル)。旧新橋駅と銀座の近さを頭に入れる。
 昨夜、友と飲み会をした7丁目ライオンビル前を直進し和光が見下ろす銀座4丁目の交差点を右折する。道の向こう側に「歌舞伎座」が見える。私は未だホンモノの歌舞伎を拝見したことがない。いつか是非ともこの地で本格的な歌舞伎を観たいものだ。築地に向かって歩く。三原橋の痕跡がある。下を横切る道路はかつては堀(三十間堀)だった。この堀は東京オリンピックを控えた昭和38年に埋め立てられたものである。かつて東京は「水の都」であった。多くの堀で彩られていた。それらは東京オリンピックを「大義名分」とする東京改造計画の中で埋め立てられたのだ。
 散歩の最初の目的は「築地本願寺」。伊東忠太(一橋大学兼松講堂の設計者)の設計にかかる本格的なインド風の建築である(昭和9年築)。伝統的な木造建築寺院に慣れた従来の門徒にとって鉄筋コンクリートで構築されたインド風寺院は衝撃的であっただろう。しかし仏教の生まれ故郷はインド文化圏なのであるから、寺院を御先祖たるインド風建築にするのは確かに理にかなっている。ここは2度目であるが以前は通り過ぎただけなので意識的に廻るのは今回が始めて。あまりにも堂々とした造りに感銘を受ける。館内には(怪獣好きだった伊東さんの趣向で)たくさんの空想上の不思議な生き物の像が設置されている(兼松講堂と共通する特徴)。満足して見学を終える。
 下調べをしていないので「築地小劇場」をスマホで検索した。地味な路地の中にそれはあった。跡形は何もない。NTT築地ビルの壁面に「築地小劇場跡」を示す小さいレリーフが掲げられているだけである。築地小劇場は当時も定員400人の小さい劇場であった。しかし大正時代に確かにこの地で「日本演劇史に残る画期的な上演」が数多くなされたのである。浮羽の安元さんも最新の演劇を観に築地まで足を運んだのであろうか?と夢想してみる(「医師の劇団1」参照)。
 少し歩くと明石町に入る。聖路加国際病院の存在感が凄い。聖路加は使徒パウロの協力者の1人であり、新約聖書:福音書の1つ「ルカによる福音書」の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来する。聖ルカは『コロサイ人への手紙』で「親愛なる医者のルカ」と呼ばれる医師の守護聖人でありキリスト教圏では多く病院の名前に使われている。この地は明治初期に「外国人居留地」だった。1858(安政5)年に江戸幕府は欧米五カ国と修好通商条約を結び横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を決定した(江戸開市は明治以降)。明治政府は1869年「築地:鉄砲洲」に外国人居留地を設けた。この築地の居留地は(商館の多い横浜・神戸・長崎と異なり)政治に直結した外国公使館や領事館が多く設けられた。同時に宣教師・医師・教師など知識人が居住し、教会や学校などを開いて教育を行い日本の近代化(西洋化)に大きな影響を与えた(中津藩屋敷に設けられた慶応義塾以外は全てミッションスクールである)。前述のとおり1872(明治5)年に新橋(汐留)と横浜(桜木町)間に鉄道が開通したが、それは同時に「築地の居留地」と「横浜の居留地」を結ぶものであった(ちなみに居留地制度は1899年の「治外法権撤廃」によって廃止されている)。
 病院第1街区南西は昔「赤穂藩上屋敷」だった。道路沿いに「浅野内匠頭邸址」の碑が設置されている。私は特に「忠臣蔵」を意識し「東海道歴史散歩」(全3回)を企画した訳ではないが、知らず知らず、忠臣蔵に所縁の場所を廻っていたことになる。苦労して「久留米おきあげと忠臣蔵」(全3回)を書きあげた私に対する神様の御褒美かと思ったりもする(私は2024年4月「司法修習後30周年同期会」で上京した際に本所両国に残る忠臣蔵所縁の旧吉良邸を巡ることになった。)
 隣りに「芥川龍之介生誕の地」碑がある。芥川(養親の性)は1892(明治25)年3月1日にここで生まれた。実父新原敏三は外国人居留地に牛乳を提供する耕牧舎(牛乳搾取販売業)本店の支配人であり、この地に店舗兼住宅があったのだ。異国情緒に富むエリアで、後に誰よりも西洋芸術を熱心に受容する作家が生まれたことは象徴的である。この男子は辰年辰月辰日辰刻(午前8時頃)に誕生したので「龍之介」と名づけられた。敏三(実父)42歳、ふく(実母)33歳と、共に厄年であったため「大厄の子」として龍之介は家の向かい側にある外国人居留地52番にあったイギリス教会宣教会の聖パウロ教会前に捨てられ松村浅次郎(敏三の勤める耕牧舎日暮里支店経営者)が「拾い親」となる「捨て子の形式」(儀礼的な習俗)がとられた(高橋龍夫「芥川龍之介」ミネルヴァ書房8頁)。「日本的な習俗の儀式」が「キリスト教の教会の前で」行われたという奇跡は「その後の龍之介の西洋文明との関係とりわけ創作上におけるキリスト教との深い関係の宿命性を暗示するかのような興味深い出来事」(@高橋)だと思わざるを得ない。ちなみに芥川は自分の出生地が赤穂藩上屋敷の跡だったことも意識していたようで、そのことが後に芥川をして「或る日の大石内蔵助」執筆に向かわせたものと思われる(芥川に魅かれている私は前述した「司法修習後30周年同期会」で上京した際に本所と田端の芥川所縁の地も巡った:この「歴史散歩」は来年上程します)。
 午前7時を過ぎたので「東急ステイ新橋」に帰る。朝食を摂りチェックアウトして出発する。

江戸時代、商業的中心は日本橋だった(「金座」は現在の日本銀行の地・今も日本橋界隈には江戸時代からの老舗が多数存在する)。京橋の南側に慶長17年(1612)静岡の駿府から「銀座」(銀貨を鋳造する役所)が移転されたことで当地は商業地としての発展を始めた。
 明治5年(1872年・鉄道開設の3か月程前)の大火をきっかけに煉瓦街の建設が始まる。町名改正(明治2年)により「銀座」と呼ばれるようになった地に西洋流不燃都市を建設する計画である。イギリス人ウォートルスによって設計された。明治5年から7年もの歳月をかけて工事が行われ明治12年に完成した。この結果、京橋から新橋までの「中央通り」(旧東海道)が煉瓦で舗装され、両脇に煉瓦造りの新興商店が多数建設された。これが現在の銀座繁栄の原点である。
 銀座の繁栄は地理的要因が大きい。築地(明石町・聖路加国際病院一帯)に外国人居留地ができ、汐留に日本初の鉄道駅舎(旧新橋駅)が出来た。銀座に西洋の香りが流れ込んだ。このことは銀座から汐留と築地に歩いてみれば感得されよう。外来窓口と旧来中心地(日本橋)を結ぶ地点にあったことこそが銀座を日本一の商業地とした。歩いてすぐの距離に政治の中心(霞が関)があることも欠かせない。これを取材対象とする情報産業も集積した。朝日・読売・毎日等大手新聞や書籍出版社が銀座に本社を置いた。以前「ちょっと寄り道(本郷)」にて明治政府が科学技術という異国(西洋)文明を普及させることを中央集権国家の柱としたこと・その配電盤が東京帝国大学であったことを述べた。これに準えて言うなら明治時代における西洋的ジャーナリズム(活字メディア)は「銀座こそが配電盤であった」と表現することが出来る(永嶺重敏「読書国民の誕生」講談社学術文庫)。
 銀座の象徴だった煉瓦街は大正12年(1923)9月1日発生の関東大震災で崩壊した。しかし木造一戸建ての家屋と異なり建物基礎部分が残った煉瓦街は他ほど復興に時間がかからなかった。昭和初期にネオン街が誕生し新たな街の象徴となっていた。「カフェー」流行で銀座通りが夜の街の顔を持つようになった。最先端のファッションに身を包んだ若い男女がモボ(モダンボーイ)モガ(モダンガール)と呼ばれ、昼の銀座を闊歩するようになったのも昭和初期である。
 当時流行った「洒落男」(榎本健一の歌唱で著名)は次の有名な歌詞で始まる。
 

俺は村中で一番 モボだといわれた男 
 うのぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へ来た

 また当時流行った「東京行進曲」には次の歌詞がある。
 

昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ
 ジャズで踊ってリキュルで更けて
 明けりゃダンサーの涙雨

安藤更生の「銀座細見」によると、それまでの銀座の雰囲気が「フランス好み」だったとすれば、モボ・モガの扮装と姿態はいずれも「アメリカ映画の模倣」なのであった。
 対米戦争によって銀座の繁栄はいったん消滅する。東京大空襲で6丁目までの銀座の街並みは焼け落ちたが、銀座7丁目8丁目は難を逃れた(だからこそライオンビルは生き残ったのだ)。GHQは銀座の服部時計店や松屋などをPX(軍隊用の売店)や将校クラブとした。焼けた銀座は「米軍相手の繁華街」として再スタートを切った。ちなみに米軍が接収した物件、あるいは事務所として使用されていた物件については充分な家賃が支払われていたそうである。その賃料は商売を立て直すための資金として蓄積されたという。アメリカは「相手方が悪魔とみれば容赦なく殺戮し、自分側とみれば慈悲的に接する」キリスト教福音主義の帝国である。敗戦直後の高額な賃料は、自分らが行った大量殺戮の後で我に返ったアメリカ人の慈悲(チャリテイー)だったのかもしれない。

現在に戻ろう。銀座8丁目の「新橋」から銀座1丁目の「京橋」まで1・1キロメートル。意外と短い。中央通りは両側の建物間隔が約27メートル。煉瓦街が建設された当時と同じだ。車道の幅は16メートルしかない。江戸時代の道幅(京間8間)と同じ。意外と狭いのだ。
 銀座8丁目(中央通り沿い)「銀座ミノリビル」に田中久重(久留米出身:からくり義右衛門)が経営する田中製作所があった。明治8年(久重77歳のとき)開設された。通りに面した煉瓦建築で商品を販売し裏の工場で製造をしていた。久重が明治14年に没すると養子である大吉(2代目田中久重)は事業を発展させ芝浦の広大な土地に工場を建設するに至る(芝浦製作所:東芝の祖)。しかしながら事務と販売部門はそのまま(関東大震災まで)銀座に残されていた。
 7丁目ライオンの先、ユニクロ向かい側に「商法講習所跡」の碑を発見。明治8年に帰国した森有礼が、渋沢栄一と福澤諭吉の協力を得て、尾張町に創設した商業学校だ。後に東京商科大学になる。神田一橋に移転後、関東大震災で壊滅。そのため堤康次郎率いる「箱根土地」と土地を交換し国立に移転した。戦後、一橋大学と改称され現在に至る。私は卒業生であるから、この経緯は学生時代から知っているけれども「銀座の商法講習所跡」が何処か全く知らなかったのだ。
 6丁目左筋にあるのが「交詢ビル」。交詢会の意義は前回慶応義塾大学三田キャンパスを紹介する中で触れた。交詢会はクラブの本拠として銀座に交詢ビルディングを所有しており「交詢社通り」という由緒ある地名になっている。旧社屋は関東大震災で被災した後、昭和4年(1929年)建築の歴史的建造物だった。平成16年(2004年)に建て替えられた(ファサードだけ保存)。
 銀座の中心は4丁目交差点に君臨する「和光」。ルネサンス調のクラシカルな雰囲気が漂う。昭和7(1932)年に服部時計店(セイコー)本社として竣工した。時計台は正確に東西南北を指している。戦後は服部時計店の組織改編により同社小売部門「和光」店舗として使用されている。設計は渡辺仁。東京帝国大学卒業後、鉄道省・逓信省の勤務を経て大正9年に建築事務所を開設した。横浜ホテルニューグランド(昭和2年)数寄屋橋脇の日本劇場(昭和8年)帝冠様式の東京国立博物館(昭和12年)戦後GHQ本部が置かれた第一生命館(昭和13年)が代表作。いずれもが時代の生き証人的な存在感を発揮している。東京駅や日本銀行本館を設計した辰野金吾が「明治大正時代を代表する建築家」とするならば「昭和初期を代表する建築家」は渡辺仁だ。和光ビルは今も昔も銀座の象徴。だからこそ初代ゴジラ(昭和29年)はこのビルを目の敵にして破壊したのだ。
 左折して「数寄屋橋」に向かう。江戸時代に南町奉行所があった場所である。明治以降、この地に朝日新聞東京本社・日本劇場(日劇)・丸の内ピカデリーがあった。各々、朝日新聞・東宝・松竹が所有権を持っていた。この3社が共同出資して設立した「有楽町センタービル管理株式会社」が現在のマリオンの所有権を持つ。2003年に公開され震電の活躍で話題を呼んだ「ゴジラー1.0」では(品川を通り越して)銀座に現れたゴジラが数寄屋橋に移動し旧「日劇」を破壊するシーンが印象的だった。ちなみに私は学生時代にマリオンでアルバイトをしたことがある。
 和光裏は「ガス灯通り」。横浜(本町通りと馬車道)に初めて設置されたガス灯は文明開化の象徴だった。明治10年、銀座にも設置された。現在ガス灯通り3丁目にあるガス灯4基は1994年に復元されたものである。ガス灯自体は明るい光源ではない。しかし提灯や行灯くらいしか夜の光源がなかった当時、ガス灯は夜の道を安全に歩くための驚くべき光源であった。既に電気の存在は知られていたが明治初期においては安定的な電力供給がおぼつかなかった。だからこそ「安定供給できるガス灯」の需要が高かった。ガス灯から電灯への転換を推進したのが(2代目)田中久重である。
 銀座2丁目(ティファニー銀座本店前)には前述した「銀座発祥の地」碑が存在する。ちなみに、明治以後の造幣局としての機能は大阪(北区天満)に移転されている。

京橋へ向かう。銀座との境には実際に「京橋」という名の橋が架かっていた。その痕跡が今も残されている。華やかな商業エリアから堅実なオフィスエリアに街の雰囲気が変わる。
 京橋のレトロ建築の筆頭は「明治屋ビル」だ。昭和8年竣工、コンドルの弟子曾禰達蔵の設計によるルネサンス様式建築である。民間で初めて地下鉄駅と一体化して計画された現存最古の貴重な歴史的建築物である。東京大空襲やバブル経済など外的変化を乗り越え創建時の外観・用途を維持して保存されてきた。近時、清水建設により補修工事が行われた。外壁は、調査で安全性を確認の上、出来る限り現物を補修・再利用し、タイルは当時の質感・色合などを再現した。石材とコーニス装飾部はクリーニングや色合調整を施し、保存を行いながら創建時の姿に戻している。素晴らしい。
 東京駅八重洲口から見える角地(京橋1丁目1番地)に「ブリヂストン本社」ビルがある。以前「石橋正二郎顕彰会」の企画で建て替わる前のブリヂストン美術館を拝見したことがあり、そのときの経験を「東京の石橋正二郎」でまとめている。ここは旧東海道に面している一等地なのであった(当時は東京駅八重洲口との関係しか頭になかった)。ブリヂストン美術館はビル建て替えに伴い「アーチゾン美術館」に変わっている。2016年の展示を最後に石橋財団は久留米の美術館運営から撤退し(事後は「久留米市美術館」に移行)多くの石橋財団保有の名画は東京(京橋)のアーチゾン美術館に移された。久留米市民の文化レベルの低下に鑑みれば仕方ないかと感じる。久留米で見慣れていた青木繁等の石橋コレクションも東京で見ると別の様相を見せるのではないかと思う。

日本橋通りに入る。現在は新橋から続く「中央通り」の一部であるが江戸時代の名称は「通町」であった。東海道を背骨にした両側町である(道の両側が同じ町名になる)。日本橋の「通町」は旧東海道沿いが江戸屈指の目抜き通りであったことを表象する固有名称なのであった。
 左側に「丸善」日本橋店がある。創業は明治2年1月1日(1869年2月11日)。創業地は横浜で創業時の社名は丸屋商社であった。最初の法人登記簿に代表者として「丸屋善八」という架空の人物を記載したことから丸善の名が生まれることになったという。翌年開設された日本橋店は「丸屋善七店」を名乗ったそうだ。創業者は福澤諭吉の門人である早矢仕有的(はやしゆうてき)。屋号は早矢仕が福沢と相談の上選定したもの(元は「球善(まるぜん)」であり球(たま)は地球を意味し、洋書の輸入販売は「知識を世界に求める」意味がある)。設立当初から「所有と経営を分離する」日本初の近代的会社であった。服飾や高級文具(万年筆など)建築まで幅広く手がけた。その商社的性質は現在も残る。夏目漱石や芥川龍之介は丸善の大のお得意様であった。明治43年に赤レンガ造りの本社家屋を竣工したが、これは日本初の本格的鉄骨建築であった。設計は佐野利器。4階建ての建物内にエレベーターまで設置されていた。関東大震災で焼失。昭和27年に鉄筋コンクリートにて再建。平成19年(2007)現在の日本橋店がオープンした。ネット社会の進展の中で「書店の存在意義」が問われている。丸善が末永く繫栄されることを願ってやまない。
 丸善の道向かいに「高島屋本店」がある。昭和8年(1933)に開設された。ここだけパリにいるかのような華やかな雰囲気がある。設計は高橋貞太郎。戦後復興から高度経済成長期に徐々に規模を大きくし昭和40年(1965)には1街区を占める程の巨大店舗になった。正面玄関から店内に入ると広く豪華な玄関に圧倒される。玄関には広々とした吹き抜けや大理石の柱がある。この豪華な玄関は創建時の高橋貞太郎のデザインと増築を実施した村野藤吾氏の融合作品である。なお私は司試受験生時代に高島屋の外商配達助手のアルバイトをしていた(「渋谷」を参照)。

東海道歴史散歩の目的地「日本橋」に着いた。徳川家康が江戸に幕府を開いた後、1630年頃に日本橋は架けられたと伝わる。翌年、幕府が直轄する「五街道の起点」と定められた。現在の橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、美しいシルエットは見ごたえがある。欄干中央部分には逞しい麒麟(きりん)像があり「日本橋のシンボル」として多くの市民と観光客に親しまれている。日本橋は国の重要文化財となっており「現代日本の道路網の起点」とされる。橋の中央にその元標がある。感銘を受ける。周囲には日本橋の沿革を物語る数多くのモニュメントが設置されている。目を惹いたのが旧野村證券ビル前の掲示だ。江戸時代・明治・昭和・現在に並んで首都高速道路が撤去された近未来の姿まで(写真とイラストで)表示されている。
 昔、この辺りは魚河岸であったから(その後「築地」に移転)寿司屋や海苔店の老舗が軒を連ねている。他にも日本橋には数多くの「老舗」があり(代表は三越や三井本館など)固有の歴史物語がある。しかし本稿は「東海道」歴史散歩なのであるから、この辺で稿を閉じることにしたい。
 「東海道」を自分の足で歩くことは若い頃からの私の「夢」であった。還暦を超えた今、その夢の一部を実現できて我ながら感動している。歴史散歩を趣味に出来てよかった。(終)

前の記事

ちょっと寄り道(三田新橋)