ちょっと寄り道(神田)
東京旅の2日目午前は神田周辺を巡りました。午後は修習30周年同期会に参加しています。
(参考文献)司馬遼太郎「街道をゆく36:本所深川・神田」朝日文庫、小野田滋「東京鉄道遺産」講談社ブルーバックス、広瀬瑛「京浜東北線歴史散歩」鷹書房、松田力「東京建築散歩マップ」エクスナリッジ、「東京都の歴史散歩・上」山川出版社、西井一夫「昭和20年東京地図」筑摩書房、籠谷典子「東京10000歩ウォーキング№3」明治書院、「神田万世橋まち図鑑」フリックススタジオ、「重ね地図シリーズ:東京昭和の大学町編」光村推古書院、NHK「虎に翼」ガイドブックなど)
朝5時に目が覚めた。東京は既に明るい。シャワーを浴び学士会館(東京大学発祥の地)を出て散歩する。旧江戸城の鬼門(東北)にあたる当地は比較的静かなところ。この静かな感じは江戸時代から続く。周辺は江戸城の「火除地」(延焼を防ぐために意図して建物が廃除された場所)であった。1番から3番まである広大な空き地で通称「護持院ヶ原」と呼ばれたところである(現在の学士会館・如水会館・共立女子大学講堂など・跡地周辺は大学や学校が多く設けられた)。当然ながら当地は「護持院」の跡である。護持院とは知足院中禅寺(筑波山神社別当)が起源とされる寺院で、湯島にあった知足院江戸別院を元禄元年(1688年)第5代将軍綱吉が当地に移したものである。綱吉の寵を受けた隆光上人を開山として大伽藍を整備し「護持院」と改称した。しかし享保2年(1717年)火災により全てを焼失した。後を継いだ将軍吉宗は護持院に寵を与えず同地での再建を許さなかった。そのため跡地は火除地となった。広大な空き地になり明治時代初期も不気味感の漂うところだった。森鴎外はこの不気味さを背景にした短編「護寺院ヶ原の敵討」を残しているらしい。若干洗脳されている私は不気味さを感じながら江戸城跡の堀に沿って散歩し学士会館に戻った。
身づくろいして学士会館をチェックアウト。白山通りを北に歩き神保町交差点を右折する。周辺は神田古書店街の中心であり学生時代に歩き回った。書泉グランデや三省堂書店が懐かしい。神田は世界でも有数の「学びの町」だ。多くの私学(後記5法律学校の他に東京電機大・東京理科大など)が神田から興った(司馬「街道をゆく36」)。1877年神田錦町に華族の教育機関「華族学校」が開校している。明治天皇により「学習院」と名付けられた(後に目白に移転する)。護持院ヶ原の東京大・一橋大・共立女子大なども神田発祥であり神田を起源とする近代教育機関は極めて多い。多数の教育機関が世界に冠たる古書店街(往時に比べれば寂しくなったけど)を育むことになった。
駿河台下交差点を左折し坂を上る。本郷台地末端を意識し台地上に向かって登ってゆくと駿河台にそびえ立つ明治大学の巨大なタワーが見えてくる。散歩期間中に開始された『虎に翼』が舞台にしたところだ。道を挟んで存在するギャラリー内には猪爪寅子を演じた伊藤沙莉さんと実在モデルである三淵嘉子さんのコラボしたポスターが貼られていた。誇らしく「女性法曹教育のパイオニア」なるコピーが付けられている。『虎に翼』は明治大学を中心に日比谷公園・御茶ノ水橋・甘味処竹むら・中央線高架・上野広小路など周辺の印象的風景を背景に物語が展開された。散歩中(2024年4月初)は開始直後だったが、本稿を執筆中の現在(2024年9月末)放映が終了し、寂しい「ロス」の感覚に襲われている。駿河台周辺には1880年代に私立の法律学校が5つも設立されていた(明治大・中央大・専修大・日本大・法政大)。駿河台は法律学を勉強する学生であふれていたのである。
明治大学の北隣にあるのが「山の上ホテル」。多くの文豪が利用したことで知られる。周辺の神田・神保町は出版社が多く、ホテルは数々の作家に執筆活動のため使われた。メールやファクスがない時代には、締め切り前になるとロビーに原稿を待つ出版社の人たちが集まったという。この地に立派なホテルがあるのは学生時代の私も知っていたが、ウイリアム・メレル・ヴォーリスという名建築家の設計になる貴重な建築物であるとの認識は全くなかった。休館中という表示があり(2月13日から)中に入れなかった。残念。(後記:明治大学は2024年11月15日山の上ホテルの土地建物を同日付で取得したと発表した。2031年の創立150周年の記念事業の一環として再整備するという。ヴォーリス設計の外観を維持したまま改修工事を実施しホテル機能は継続させる。学生支援や地域連携拠点としても利活用できるよう検討を進めるそうだ。喜ばしい。)
道路を渡った辺りに「文化学院」(旧校舎)があった。1921年(大正10年)西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによって創設された。「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という大正デモクラシーの理念に沿った新しい教育を掲げ「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開された。日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した。方針が違ったため国の補助金はなく伊作の資産などで運営されたという。与謝野晶子らを中心に独自の教科書が作られ授業を行った。日本文化のみならず、キリスト教精神や西洋文化的教育が行われた(教員にも多くの西洋人を招へい)。与謝野晶子は11人もの子供を育てながら「日本初の男女共学」に貢献した。夫が大学教授になるまで収入が安定しなかったので孤軍奮闘。来る仕事は全て引き受け残した歌は約5万首。「源氏物語」現代語訳を手がけつつ平塚らいちょうと論争するなど女性解放思想家としても足跡を残す。晶子は「国家による母性保護なんて要らない」論を主張し「母性保護」を訴える平塚らいちょうらと真っ向対立。「女も経済的に自立すべきだ」というのが晶子の論だった。自らの経験に即したものであるだけに迫力がある(斎藤美奈子「モダンガール論」マガジンハウス161頁)。1923年の関東大震災により校舎が全焼。校舎は残った土台の上に新しく積み上げて作り変えられた。1930年代、世界恐慌後の軍国主義化の中で文化学院は自由を愛する市民から敬慕された。三木清・田中美知太郎・福武直・清水幾太郎・美濃部達吉・吉野作造等の著名な学者が講義。1943年、伊作が不敬罪の名のもとに拘禁され文化学院は閉鎖命令を受けた。伊作は半年間投獄され、釈放後も裁判のやり直しを求めたが終戦によりうやむやとなったようだ。戦後、文化学院は再興された。戦時中、文化学院は捕虜の収容所となっていたため、米軍の空襲を免れたのである(山の上ホテルが空爆を免れたのはそのため)。復活した文化学院は多くの優れた文化人を輩出した。しかし周りが全体として自由主義的になり独自性を喪失したためか経営が思わしくなくなり2016年に専修学校の募集を停止。2018年の3月末に文化学院は閉校した。文化学院は無くなったが、その歴史的な意義は大きい。与謝野晶子らの主導した、かかる自由主義(男女平等)的な土俵の上に『虎に翼』の舞台である「女子部法科」は開花した。駿河台は「自由の殿堂」なのであった(そのことが1969年駿河台に「日本のカルチェ・ラタン」と称されるバリケード空間を現出させることに繋がるのだろう・ただし1968年フランス「5月革命」を模倣して出現した幻想だったのかも)。
東の方向に歩くと「ニコライ堂」が聳え立つ。ニコライ堂は駿河台にある正教会の大聖堂。正式名称は「東京復活大聖堂」であり「ニコライ堂」は通称でる。ニコライは日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)である。建築面積は約800平方メートル。緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴。日本初で最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築とされる(1891年竣工)。同時代の鹿鳴館の総工費が18万円であった時代に、ニコライ堂建築には24万円という巨費が投じられている。この費用は信徒からの寄付金とロシアの援助で賄われたものだ。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。このニコライ堂は1962年6月21日、国の重要文化財に指定された。拝観したいのだが早朝のため断念した。
「聖橋」(昭和2年竣工)は聖ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶことに由来する名称である。神田川上に「本郷通り」を設置するため架けられている美しい橋で、JR中央線御茶ノ水駅に隣接する。駿河台と湯島を結んでいる。全長79.3mのうち神田川上部の36.3mがアーチを描く鉄筋コンクリート橋。関東大震災(1923年)後の復興建築であり、設計は山田守と成瀬勝武が担当した。橋中央で風景を眺めていたら秋葉原方面から白い列車が向かってきた。いつもと違う列車だったのでスマホを取り出し撮影する。タイミングばっちり。上手に先頭から最後尾まで1枚に収めることが出来た。直ぐFBに上げたところ向原・花田両先生から反応があり褒められた。向原「うまく『あずさ』を全編成収めましたね!しかも1日1本の早朝千葉発、なかなか撮れるものではありません!」私「偶然ですよ」花田「だって鉄ですから!」。瞬時の意見交換を可能にしてくれる情報環境に感謝。
JR御茶ノ水駅沿いに西に歩くと「御茶ノ水橋」。旧橋は1923年(大正12年)関東大震災で焼失し神田川は土砂崩れでせき止められた。そのため復興工事が進められ1931年(昭和6年)5月10日震災復興事業として架替が完了した。長さ80m橋脚中心間は30.48m。橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製ラーメン橋で鮮やかな緑色が特徴的だ。橋の中央から総武線・中央線・地下鉄の線路を眺める。江戸時代初期、繋がっていた本郷台地は神田川開削により本郷と駿河台が切り離された。この大工事は江戸幕府が諸大名に課した手伝い普請のうち仙台藩が工事を行った所だ。工事は三代藩主綱宗時代に始まり、万治4年(1661年)四代藩主綱村時代に完成した(初期の工事には初代藩主政宗も関わっている)。現在、神田川はバラエティに富む幾つもの橋に彩られている。この神田川が「本郷台地を掘り込んで作られた人工河川」と認識している人は今どれほどいるのであろうか。
御茶ノ水橋を渡って東に歩き「湯島聖堂」へ。由来は1690年(元禄3年)林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営したことに遡る。将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称し付属建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。1797年(寛政9年)この林家私塾が幕府直轄の「昌平坂学問所」となる。1799年(寛政11年)聖堂の大改築が完成し敷地は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿も創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。維新後、新政府に引き継がれた。教育研究機関としての昌平坂学問所は(幕府天文方の流れを汲む開成所や種痘所の流れを汲む医学所と併せて)後に東京大学へ続く。1870年(明治3年)太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された。昌平学校の閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等とともに東京師範学校(現在の筑波大学)東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が開設。後に東京医科歯科大学も開設された。この周辺も近代教育機関の源流だ。1923年(大正12年)の関東大震災により聖堂は入徳門と水屋以外の建物が全部焼失した。現在の大成殿は伊東忠太設計・大林組施工により1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建された。
歩くとすぐに「神田神社」がある。昔は「神田明神」と呼ばれた。神仏習合色が強かったが明治の神仏分離により仏教色が排除され「神社」に改称。神田は「神に捧げる田」の意味。当社は初めからこの地にあったのではない(元和2年移転)。移転の経緯は「将門塚」で後述する。
坂を下りる。「総武線神田川橋梁」は昭和7年築。総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅と秋葉原駅間の神田川に架けられたものである。橋脚は八の字形のラーメン形式(橋桁と橋脚が一体)。川に橋脚が設けられなかったのは当時まだ現役であった船運の邪魔にならないようにするためだ。御茶ノ水側のコンクリート製橋台が中央本線の上りを跨ぐ形となっている。秋葉原側はコンクリート製橋台を挟んで松住町架道橋へと繋がる。この「松住町架道橋」も昭和7年築である。松住町交差点(昌平橋交差点)に架けられた橋梁である。下は東京市電(路面電車)の軌道が交差した。橋梁は交通量の多いこの交差点を斜めに跨ぐ必要があった。道路中央に橋脚を建てると交通に甚だしい支障を与える。ゆえに支間を大きく取ることのできるアーチ橋が採用された。アーチ部材にはトラス構造のブレーストリブアーチが用いられている。支点部同士を繋材(タイ)で結んでアーチに働く水平反力を橋桁で受ける「タイドアーチ形式」が日本の鉄道橋として初めて採用されている。鮮やかな緑に塗装されて色的にも目立つため、秋葉原のランドマーク的な要素も持ち合わせている。
万世橋を渡って旧「万世橋駅」へ向かう。明治36(1903)年3月、旧万世橋(眼鏡橋)が取り壊された後、赤煉瓦造りの巨大な「万世橋駅」が神田須田町交差点に面して建てられた。明治45(1912)年4月中央線(甲武電車)の起点となった。駅前に広瀬中佐の銅像が立っていた。旧万世橋駅遺構の一部は(交通博物館を経て)今も残っており「マーチエキュート」になっている(ちなみに交通博物館は大宮に移転している)。神田川に面した連続アーチが美しい。最上部に洒落たカフェがあり美味しいコーヒーを飲みながら両脇を通り過ぎる列車を眺めることが出来る。
前述のとおり「神田」とは「神に納める供物をつくる御田」という意味であり、その「米を収納する御倉」があったところが美倉町である。この周辺は江戸期になって早くから開けたところで、他に材木町・紺屋町・鍛治町・乗物町・堅大工町・塗師町などがあった。典型的な職人町。
神田須田町は神田川や日本橋川などの「運河」に挟まれた交通の要衝であった。須田町は空襲の被害を奇跡的に免れたことで著名である。第1回目は昭和19年11月29日夜半。B29が27機来襲し城東地域が被害に遭った。第2回目の昭和20年2月25日空襲は被害甚大であった。約1万戸が被災した。しかし須田町の一部エリア(現在の神田須田町1丁目周辺)は奇跡的に被害を免れた。焼夷弾の直撃を受けなかった上に神田川・レンガ造りの高架線路・東側の国鉄中央本線や旧万世橋駅・南側の靖国通りが防火帯になったためと言われる。しかし同条件で被害を受けているところもあるので須田町は「運が良かった」としか言いようがない。千代田区は戦災の被害をまぬがれた建物の中で特に街の景観に寄与しているものを「千代田区景観まちづくり重要物件」に認定。現在の指定物件は鷹岡(繊維品卸売・昭和10年)いせ源本館(料理店・昭和7年)神田まつや(そば店・大正14年)ぼたん(鳥すき焼き・昭和初期)竹むら(甘味店・昭和4年)海老原商店(昭和3年)柳森神社(昭和5年)万世橋(昭和5年)の8つ。30分ほど並び「竹むら」で軽食。『寅に翼』の「竹もと」のモデルだ。見事な建物の中でいただく「田舎しるこ」(820円)と「みつまめ」(770円)は格別であった。
食後、須田町を散歩。哲学徒であった頃、私は須田町にあった一橋OBであるA先生の法律事務所に出入りした。当時「報道と人権」の関わりに私は関心があった。この問題に取り組むA先生の活動に触れる機会があり、先生から事務所に遊びに来るよう誘われたのである。プレスセンターで開かれた「報道と人権」シンポジウムのお手伝いをさせていただいた。貴重な経験だった。大学3年生から4年生の頃、身の回りで(詳細は書けないが)いろんな出来事があり、自分の進むべき道を模索していた私にとり先生との出会いは司法試験を志す契機の1つになった。その約40年後、弁護士30年生として須田町に戻って来るとは夢にも思っていなかった。人生は不思議なものである。
岩本町交差点に向かう。現在の東京市街は関東大震災の復興事業として形成された。その立役者が後藤新平。彼が主導した大正通り(横軸)と昭和通り(縦軸)は交通の要である。「大正通り」(現在は靖国通り)は新宿から両国橋までの約8キロ・「昭和通り」は根岸から新橋まで約8キロ。両者が交差するのが神田岩本町交差点なのだ。この交差点を観て感銘を受けているのはたぶん私だけであろう(笑)。神田は江戸時代から栄えていた。町屋が並んでいたからこそ鉄道の敷設が遅れたのだ。「神田駅」は大正8年(1919)に万世橋駅と東京駅を結ぶ中央線延伸開業に伴い「途中駅」として開業した。付近が江戸以来の市街地だったことから(ベルリン市内鉄道をモデルに)高架駅として建造された。当時の最新技術である鉄筋コンクリート造りであるが(明治後期に完成した)新橋東京間の総れんが積み高架橋と外観を統一するために表面を赤れんがで化粧しているところが実に細かい。東京上野間の市街線は1920年に起工した。関東大震災により工事が遅れたのだ。工事が進み、神田駅は大正14年(1925)秋葉原と東京を結ぶ東北本線延伸に伴う「途中駅」としても開業した。山手線の「円環構造」はこのときに完成したのだ。昭和6年(1931)東京地下鉄道(東京メトロ銀座線)駅も開業している。この辺りの中央線・山手線・総武線のごちゃごちゃした感じは(当時は最先端だった高架下建築と相まって)熱烈な鉄道建築ファンを歓喜させるものとなっている。
午後1時を過ぎた。西に向かって真っ直ぐ歩き大手町の巨大なビル街に入っていく。同期会の会場たるサンケイプラザに来たが受付開始時刻には早い。通り越して3分ほど歩くと「将門塚」がある。平将門怨霊信仰の聖地。社伝によると当社は天平2年(730)に武大己貴命(大国様)を祀って武蔵国豊島郡芝崎村(将門塚周辺)に創建された。その後、塚周辺で天変地異や疫病が頻発。「平将門の祟りである」として人々を恐れさせたため、真教上人が手厚く御霊を慰め、延慶2年(1309)当「神田明神」に奉祀した。戦国時代、太田道灌や北条氏綱らによって手厚く崇敬された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が合戦に臨む際、当社に戦勝祈願。結果、勝利したので徳川将軍家は祭礼を篤く執り行うよう命じた。江戸幕府が開かれると元和2年(1616)当社は江戸城鬼門にあたる湯島に移転し幕府により立派な社殿が造営された。以後「江戸総鎮守」として庶民にいたるまで篤い崇敬を受けた。江戸幕府は「京都の朝廷権力に対する江戸民衆の反感」を狡猾に利用したのだ。明治に入り国家管理下に入ると准勅祭社に指定された。その後、府社に列せられるも明治4年(1872年)神仏習合的な「明神」が忌避され「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)明治天皇が行幸するにあたり「逆臣である平将門が祀られているのは忌むべき」とされ平将門が祭神から外された。代わりに少彦名命(恵比寿神)が祀られ将門神は境内摂社へ左遷となった。戦後、皇国史観の反省から平将門を祭神に復帰させる嘆願が起きた。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」放映により機運が高まり昭和59年(1984年)本社祭神に復帰。「摂社(支社)から本社への栄転」なる評価から「出世のご利益がある」とビジネスマンの参拝が多いとされる。他方、元和2年の湯島移転後、当地は幕府により大手門正面として整備され酒井雅楽頭(上州前橋藩主)上屋敷となった。将門の首塚(円墳)は酒井家邸内に残っていた。明治維新後、酒井家屋敷は大蔵省敷地となる。関東大震災後、墳丘が整備され立派な供養碑が建てられて現在に至る。平将門は中央(京都)から見下されていた関東民衆の怨念を代弁するスーパースターなのである(その意味は例えば「成田山新勝寺」の縁起にも表れている・この点については近いうちに「成田」歴史散歩で触れることになるだろう)。
午後2時から「司法修習第46期同期会」。サンケイプラザ4階にて。多くの懐かしい顔に逢う。司法修習同期生は戦友である。最初は「物故者黙祷」。この間に亡くなった教官や同期に対して祈りをささげる。昔はあまりピンとこなかった儀礼であるが、自らも確実に死に近づいていることを意識する最近になって、追悼の意味が良く判ってきた。記念の写真撮影をして熊本修習の仲間と懇談する(熊本修習の同期にも物故者がいる)。私たちは「老境」(白秋から玄冬へ)に入ったのだ、と思い知らされる。ネット上でしか繋がっていなかった複数の同期FB友にもリアルで挨拶できた。
午後5時半からクラス毎の飲み会。4組の会場は丸の内ガーデンタワー2階「セントハウス丸の内」。移動のとき一緒に歩いたのが民弁の曽田多賀教官。先生は19期で日本女性法律家協会の会長を歴任された。歩きながら貴重なお話を拝聴出来た。先生は『虎に翼』を深い感慨を持って拝見されたのではないかと想像した。「セントハウス」は皇居の堀を見渡せる素晴らしい会場。幹事さんに感謝。中盤で行われた各自の近況報告が実に興味深かった。私の実務法曹生活も「終盤戦」に入ってきたのだと思わされる。「終盤戦はカンで指してはいけない・序盤戦のミスは挽回可能だが終盤の悪手は致命的になる」というのが同世代の棋士谷川浩司九段から学んだ終盤の心得である。これまで私は「カン」だけで生きてきた。が、今後は「読みを入れた差し手」を続けなければならない。悪手は致命的となる。でもビビると手が伸びなくなる。読みを入れた・かつ積極的な人生の終盤戦を展開したい。2次会では裁判官となっている2人が左右に同席した。2人とも大規模庁の部長クラスだ。目前の加藤新太郎民裁教官は「弁護士役割論」(弘文堂)の著者として名高い。これは「裁判所から見た弁護士役割論」である。私は「弁護士自身の目から見た弁護士役割論」(5者のコラム:1000本)を書いてみた。完成のために16年半を要した。実務法曹としての「宿題」を与えていただいた加藤教官には感謝している。10年先の40周年同期会の頃には物故者も増え皆「玄冬」を迎えているであろう。でも体力が許す限り是非ともまた参加したい。そんなことを思わされた良き同期会であった。
歩いて今日の宿「相鉄フレッサイン神田大手町」へ向かう。健康睡眠。