歴史散歩 Vol.166

ちょっと寄り道(品川高輪)

昨年11月、東京に出向く機会があったので若い頃から願望していた東海道歴史散歩(鈴ヶ森から日本橋まで)を行いました(2泊3日)。1日目は品川宿と高輪周辺を歩いています。
(参考文献:川副秀樹「東京の『年輪』発掘散歩」言視社、「江戸四宿を歩く」「江戸東京歴史の散歩道」街と暮らし社、八木牧夫「ちゃんと歩ける東海道五十三次・江戸日本橋」山と渓谷社、「東海道品川宿名所図会」、「初代ゴジラ研究読本」洋泉社、広瀬瑛「京浜東北線歴史散歩」鷹書房、松田力「東京建築さんぽマップ」大内田史郎「東京名建築散歩」エクスナリッジなど)

福岡空港を午前8時25分に離陸したJAL304便は定刻通り10時に羽田空港に着陸した。京急線に乗車する。横浜方面行の急行だったので蒲田で品川行の普通電車に乗り換えた。「大森海岸」駅にて降車。駅の直ぐ前を通っているのが旧東海道である。これから日本橋まで歩くのだ。胸が高まる。歩道橋にかかる道路標識は「日本橋まで12キロ・品川まで4キロ」を示している。距離的には大したことないけれど11月にしては異常に暑い。歩くのはけっこう難儀だ。
 北に少し歩くと道は左右に分かれる。左の広い道路が今の国道で右の細い道(幅約7メートル)が旧東海道だ。旧東海道に入るために歩道橋を渡ると目の前に「鈴ヶ森刑場」跡がある。江戸における南北2大刑場の1つである。江戸時代に刑場は「罪人を処罰する」刑事法的機能以外に「府内に入る者に対する見せしめ」という治安維持機能を担っていた。江戸の中心である日本橋に当初設置された刑場は(江戸の発展に伴って)南北の2カ所に分置されて数回にわたって移動し、最終的に「北は小塚原・南は鈴ヶ森」で落ち着く。鈴ヶ森は明治4年に廃止されるまでの間(約220年)10万から20万人の罪人が処刑されたと噂されている(ただ刑場遺跡を管理している大経寺によると『供養のために掘り起こした骨数から計算すると数千名ではないか』とされる)。この地で処刑された罪人の中でもっとも有名なのは「八百屋お七」である(お七は「本郷」でも言及している)。
 文政元年(1818)8月、老中・阿部正精は幕府の公式見解として江戸の行政範囲を確定した。絵図に朱線を引き北は荒川石神井川(板橋宿・滝野川・尾久周辺)、東は中川(亀戸・平井周辺)、西は神田上水(代々木・角筈・長崎周辺)、南は目黒川(品川宿周辺)までを御府内と定めた。このラインは朱線で引かれたので「朱引内」と呼ばれている(今の地図にあてはめるとJR山手線内側に江東区と墨田区の一部を加えた地域が該当)。現代感覚で言うと「江戸の行政範囲」は東側(低地)に偏っている(逆に言うと東京は西側高地に向かって発展した)。朱引内側には墨線が引かれており「奉行所の管轄範囲」も定められた。北(橋場町・箕輪村・駒込村・染井村)東(永代新田・猿江村・小梅村)西(中渋谷村・千駄ヶ谷村)南(下高輪町・下目黒村・中目黒村)。東海道に即して言うと「朱引内は目黒川まで」とされ「奉行所の管轄範囲は髙輪まで」となった。
 鈴ヶ森刑場から北に歩くと「泪橋」がある。同じ名の橋は「小塚原」にも存在する。正式な名称は浜川橋という。罪人の家族はここで今生の別れをした。この橋は規範的に江戸の「内(ウチ)と外(ソト)」を示すとともに「この世とあの世の境」をも表象していたのである。

品川宿に入る。東海道品川宿は江戸4宿の1つで(他は中山道板橋宿・甲州街道内藤新宿・奥州街道千住宿)南から北に向かって「南品川・北品川・歩行品川」の3つで構成されていた(全長は約2・4㎞)。西国から江戸に入る大名の中には、品川宿で身支度をして江戸屋敷に入り、江戸到着の報告を幕府側にする者が多かったようだ。旅籠は111軒を数えたが、うち92軒には遊女がいた。遊女の数は1000人を超えたという。吉原遊郭が「北」と呼ばれたのに対して品川を「南」と呼ぶことも多かった。品川は単なる宿場ではなく遊興地の性格もあったのである。
 青物横丁に入り江戸六地蔵の第1番「品川寺」に赴く。立派な地蔵(丈六:座高は2・75m)が参拝者を出迎える(江戸六地蔵の1つ・新宿太宗寺のそれを思い出させる)。銀杏が見事である。鐘楼にある梵鐘は明暦3年(1867)の鋳造。観音経を刻み込み周囲に六観音を浮き彫りにした傑作だという。この鐘は廃仏毀釈で行方不明になり昭和になってジュネーブの博物館で発見されたものである。「洋行帰りの鐘」と呼ばれている。小ぶりな庚申塔も印象的であった。
 北へ進むと左手に松岡畳屋さんがある。看板には「岡松疊」と書かれている(右から読む)。こんなに古い店構えの畳屋さんは田舎には無い(私は畳屋の息子なので断言)。都会だからこそ生き残れた店舗と言える(大正時代の建築という)。昔ながらの畳屋の店構えに感銘を受けた。
 角の蕎麦屋で街道を左折する。若干歩いて京急線をくぐり海蔵寺へ向かう。品川宿の中では辺鄙な場所にあたる。永仁6年(1298)遊行(時宗僧の修行旅)中の僧によって立てられた草庵が発祥と伝わる。境内には地蔵や観音などの石仏を集めた無縁塔群がある。この寺は「投げ込み寺」として著名であった。そもそもは品川にあった溜め牢(牢屋敷)で死んだ者を元禄年間(1688以降)葬るようになったのが始まりと伝わる。後に鈴ヶ森の刑死者や品川遊女も多くがここに埋葬されようになり「首塚」とも呼ばれるようになった。この首塚は後に「首から上の病に御利益がある」と信じられるようになる(そのため「頭痛塚」とも言う)。この海蔵寺の他に品川には長徳寺・善福寺という時宗の寺が3つもある。1つの地域に3つも時宗の寺があるのは極めて珍しい。道を戻り角の蕎麦屋さんで遅い昼食(天ざる)をいただく。この店の前は品川宿の問屋場跡らしい。
 目黒川の畔に「まちなか案内所」がある。旧品川警察署交番の建物(昭和4年築)が再活用されている。優れた意匠なので登録有形文化財に指定されている。この目黒川を境にして南品川と北品川が対峙していた。前者は職人が・後者は宿泊業者が多かった。両者の気質の違いや経済的利害が構造的な対立関係を生んでいたらしい(北は南に対して差別的視線を向けていたのかも)。
 目黒川を渡り北品川宿に入る。こちらのほうが宿場町の雰囲気を良く残している。入って直ぐ右に品川宿の「本陣」跡がある。明治天皇が訪れたことがあるので「聖蹟公園」と命名されている。右へ横道を下っていくと御殿山砲台跡だ。江戸時代末期、ペリー来航に揺れた江戸幕府が防衛のために構築した砲台群の1つである。現在、跡は台場小学校となっている。校門の右手に日本で3番目に古い品川灯台のレプリカが設置されている(実物は明治村に移築)。江戸時代の地図をみるとこの辺りは砂州になっており若干の微高地であった。先端に海が入り込んでいた。ゆえに小学校前を海に沿って歩き左折すると「船溜まり」が今もある。昔と変わらない奇跡的空間と言える。
 街道に戻ると著名な料亭「土蔵相模」の跡があった。薩長を中心とする尊攘派武士の重要な拠点であった。英国公使館(東禅寺)焼き討ちを企てる際に高杉晋作や伊藤博文らはこの店で謀議をしたと伝わる。桜田門外の変における水戸浪士たちも同様であったらしい。この場所は(当時の刑事法的感覚で言えば)テロリストの「アジト」なのであった。近くにあるのが「問答河岸」(実際にはもう少し南側)。2代将軍秀忠と沢庵和尚の次の問答で知られる「海近くても東海(遠海)寺とは如何?」「大軍を擁するに将軍(小軍)と呼ぶが如し」。洒落た逸話。沢庵が住職だった東海寺は若干遠いので参拝は省略した(なお、現代の地図を観ると、沢庵和尚の墓は東海道線を超えた大山墓地にある・江戸時代の東海寺境内がいかに広大であったかが判る)。  

旧東海道は「八ッ山橋」でJRの線路を超える。正月恒例の「箱根駅伝」では最後の勝負所となるところだ。古い橋のトラス構造が見事。江戸時代の地図をみると、ここに小山があったことが判る。山を切り崩して鉄道の線路は引かれた。掘り起こした土は低地の埋め立てに使われた。日本の鉄道開発史においてありふれた風景である。八ツ山橋下を走るのは東海道線と山手線だ。ここで旧東海道と東海道線は立体交差する。海側に位置していた東海道はここから陸路を行き、逆に鉄道路線が海側を行く。この立体交差だけなら東海道線は現在の東京駅に繋がらない。ゆえに「旧東海道と東海道線が再度立体交差するところ」が先にあるはずだ。その地点がどこか?は次回検討する。
 ここは昭和29年公開の「ゴジラ」所縁の地。太平洋での水爆実験で太古の眠りから目覚めたゴジラは東京湾から品川に上陸。京浜急行北品川駅(初代京浜品川駅)の案内図に「ゴジラ上陸地点」と記されデフォルメされたゴジラが火を吹いている。ゴジラは律儀にも旧品川宿から歩いてきたのだ(高輪の「品川駅」が上陸地点ではない)。初代ゴジラの出現地点またはロケ地は以下のとおりである。大戸島→太平洋→東京湾→北品川橋→品川第二台場→八ツ山橋→品川駅→東京湾→芝浦→白金台(旧国立公衆衛生院)→新橋→銀座(服部時計店)→数寄屋橋(日劇)→永田町(参議院)→平河町→勝鬨橋→東京湾。「東海道歴史散歩」において私は今後そのいくつかを辿ることになる(ゴジラこそ「東海道歴史散歩」先駆者か?)。江戸末期も第二次大戦末期も、江戸東京の難儀は南から襲ってきた。南の要となる地点が品川であった。初代ゴジラは品川から現れなければならなかった。評論家川本三郎によれば南の海から品川に現れたゴジラは「蘇った戦没者の亡霊」なのだ。

JR「品川駅」は品川区ではなく港区高輪にある。高輪にあるなら「高輪駅」にすれば良かったのでは?と思うのは現代的誤解だ。当時、本来の「高輪」付近の鉄道路線は海の中にあった(詳細は次回議論)。現在の「品川」駅所在地が行政的区画として「高輪」と言っても南端である。髙輪と名乗るには違和感があったのだろう。むしろ江戸時代以来の地理感覚として「東京の南のターミナル」は「品川」でなければならなかった。当時「駅」は街外れに作られることが多かったので「品川」駅が品川宿と離れた場所に置かれても違和感はなかったと思われる。新橋横浜間の正式開業(1872)前に品川横浜間が先行的に開業した(現在より少し南側・跨線橋の下)。この史実に鑑みJRは品川駅を「鉄道発祥の地」としている。ちなみに1885年もメモリアルな年であり現在の山手線の骨格(日本鉄道品川赤羽間)が開業している。品川駅が鉄道史にとってどれほど重要な駅か判るだろう。
 駅前に御殿山が見える。歩道橋を渡る。プリンスホテルは1978年に旧毛利元道公爵邸跡地に開業した。ターミナル駅の品川駅前で圧倒的存在感を誇る。シネマコンプレックス(T・ジョイ)や水族館(アクアパーク品川)の他に温水プール・スケート場・ボウリング場・テニスコートなどの多様なエンターテイメント施設があると言う。私には縁がなさそうなので左に見ながら直進。
 信号を左折して坂を上り東禅寺へ。安政5年(1858)7月に締結された日英通商条約により翌安政6年6月6日初代イギリス公使オールコックが駐在した(我が国最初の公使宿舎:明治6年まで使用)。文久元年(1861)5月29日外国人を敵視する水戸浪士14人がこの英国公使館を襲撃した。警備側と浪士側の双方に死傷者を出した(警備兵2名浪士側3名死亡)。翌文久2年5月29日、東禅寺を警備するはずの松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した。2度の「東禅寺事件」は江戸の治安維持(外国人の警護)に責任を持つ幕府首脳を困らせた。東禅寺は幕府の要請に従って公使館の使用を許諾したために尊攘派から憎まれて襲撃された。民衆から「汚れた寺」とレッテルを貼られて檀家も失った。難儀なことだ。私は当時の尊攘派の動きが嫌いである。
 東禅寺西側の細い道を抜けて坂を上っていく。歩いて行った先の道(旧中原街道)の左側に目標とする建物を発見した。高輪消防署二本榎出張所。昭和8年12月に落成した。鉄筋コンクリート3階建て。特徴的な望楼は灯台をイメージしている。「ドイツ表現主義の代表的建築物」として建築マニアに非常に評価が高い(平成22年に東京都選定歴史的建造物)。中に入れるのか否か不安だったが思いきってドアを開けて中に入ると署員さんが案内してくださった。感謝とともに恐縮。らせん状の階段を上っていくのはドキドキした。3階の円形講堂は8本の梁が中心に集まる独特の意匠だ。消防関係の陳列がなされている。車庫には古い消防車(昭和16年から使用)が格納されていた。
 自分は品川方面に戻っているつもりだった。何か様子がおかしい。品川駅が見えない。遠くに見覚えのある建物が見えてきた。あれは「明治学院大学」!ヴォーリス設計の礼拝堂で著名である。私は知らぬ間に反対側(白金台)まで来ていた。間違えた理由は明白である。旧中原街道は高輪の高台を南北に貫く尾根道である。私は下っている方が品川だと思い込んでいたが(尾根道である以上)白金台方面も下っていたのだ(事後的に認識した)。しかも偶然ながら当日は学園祭が開催されていた。多くの市民がキャンパスに溢れている。学園祭なので「普段は見学できない建物を特別に拝見できる」という。道を間違えたおかげで夢に見ていたヴォーリスの名建築を拝見できる!たぶん私は運が良い。礼拝堂はヴォーリス初期の名建築だ(1916)。木製トラス構造やローソク型の窓枠に、久留米ルーテル教会(1918)に近いものを感じた。予想していなかった出会いに感銘を受けた。

品川方面に戻る。坂を上り見慣れた二本榎消防署脇を抜けて坂を下っていく。「高輪ゲートウェイ駅」が観えてきた。私は山手線の駅をほとんど乗降したことがあるのだが最近出来たこの駅は当然ながら乗降したことが無い。ゆえにどうしてもこの駅から乗車したかった。京浜東北線に乗り「田町」駅へ。田町駅には何度も降り立っているが外側(東口)に降りるのは初めてだった。運河を渡り右に折れて静鉄ホテル「プレジオ東京田町」にチェックイン。疲れたのでシャワーを浴びてしばらく休憩。夜は田町駅近くの飲み屋で長年の友人と飲み会。彼は4月から田町に住み東京駅近くの仕事場で勤務している。久しぶりに楽しい酒が飲めた。1日目が終了。日日是好日。(続)

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