ちょっと寄り道(出雲2)
旅の最終日は竹野屋旅館と竹内まりやさん(+山下達郎さん)を中心に少し踏み込んで取り纏めてみました。一畑電鉄の歴史についても気合を入れて描いています。
(参考文献:大社史話会「出雲国大社観光史~参拝地から観光地へ」、平岡昭利編著「地図で読む百年:中国四国」古今書院、千家尊統「出雲大社」雄山閣、ネット上の記事など)
いつものように朝4時半には目が覚めた。5時から朝風呂に入り体を目覚めさせる。6時前から朝の散歩に出る。自分の頭の中の地図では旅館から左(西)に真っすぐに歩けば海岸という感覚だった。そのとおりなのだが屏風岩が特徴的な昨日の海岸線より遥か南側の海に出てしまった。
北に歩き「稲佐の浜」へ。静かな青い水平線を眺めていたら何故か次の歌詞が頭に浮かんだ。
青い水平線を 今駆け抜けてく 研ぎ澄まされた 時の流れ感じて
灯篭が並んでいる処から「神迎の道」に入り東に歩く。杵築の素朴な街並みが続いている。ゆるやかにカーブした特徴的な十字路を抜けて東に歩くと「勢溜」鳥居の下に出た。「ああ、ここに出るのか!」と納得。西側からアプローチすると勢溜との間に高度差を感じない(南側からだと凄い高度差なのに)。出雲大社の参道の仕組みが判って面白かった。周辺を散歩し竹野屋旅館に戻る。
7時から朝食。竹内まりやと山下達郎の静かな音楽を聴きながらの贅沢な食事だ。ここに泊まれて本当に良かったと納得した。竹野屋を発つ前にもう一度出雲大社を参拝する。拝殿にて頭を下げて少し願い事をする。昨日は西側を廻ったので今朝は東側を見て回ることにした。社家通りという違う雰囲気の通り。ムクの巨木や真名井の清水が印象的だ。社家通りには千家とは別流の国造である北島家がある。国造が2家に分かれたのは後村上天皇の時代(1343)55代孝宗の弟貞孝が(時の出雲の実力者塩谷判官の女が生母なので)その実力を背景に分家し興国5年(1344)孝宗と貞孝が約定を結び年中行事と所領等を分掌することになったものという(尊統209頁)。かめやま通りを南下。左に「古代出雲歴史博物館」が現れる。旅の計画を立てる際に中核と位置付けたのだが長期休館中であることが判明し落胆。建物の近くまで歩いてみた。本当に休館中であった。残念無念。
勢溜に戻り神門通りを下って竹野屋旅館に帰る。チェックアウトの前に売店で「竹内まりやと山下達郎のフィギュアセット」(2体ずつ)を発見し狂喜する。当然、即時に購入した。
(*旅の終了後に事務所にて撮影しFBにあげたら多くの賛同を得た・特に福岡の菅藤弁護士から次の書き込みがあった。「これはいい島根お土産買いましたね。タツローのデザインは漫画家とりみき、まりやのデザインは漫画家ヤマザキマリ」。さすがに山下達郎フリークは詳しい。)
少し「竹野屋旅館」と竹内まりやさんについて触れたい。公式ウェブサイトに次の表記がある。
明治10年(1877年)出雲大社にほど近い眞名井地区の農家の四男であった初代竹内繁藏が大社を訪れる参拝客のために開いた小さな宿それが「竹野屋」の始まりでした。以来、二代から三代へと家業は引き継がれ敷地の拡大と建物の増改築を重ねて現在の木造本館の佇まいとなったのは昭和4年(1929年)のことです。大社町に鉄道時代が到来した大正から昭和半ばにかけては修学旅行など団体のお客様が増えていきました。また戦時中は疎開児童受け入れのお宿として全国的にも名前が知られるようになっていきました。昭和46年(1971年)より15年間に渡り大社町長を務めた四代目が敷地西側に新館を増築。その頃、出雲大社をご参拝される皇室の方々をお迎えする光栄にも幾度か恵まれました。(尚、シンガーソングライターの竹内まりやは四代目繁藏の三女にあたります)。五代目(信夫)の平成の時代には出雲大社で挙式を行うカップルの増加に伴い当館独自の結婚披露宴スタイルが全国の皆様方からご好評いただきました。平成28年(2016年)秋には諸設備を一新すると共に日本書道界の重鎮「石飛博光」先生の揮毫を看板に戴き装いも新たにリニューアルオープンの運びとなりました。そして創業140周年となる平成29年(2017年)秋、次世代の若き六代目(信人)へとバトンタッチされた「竹野屋」は“神々の国への玄関宿”として初代より引き継がれてきたおもてなしの心を大切に、これからも皆様に愛される宿を目指して一層精進いたしてまいります。
以上は公式見解であるが、ネット上には以下の記事があった(2017年5月16日週刊女性PRIME)。背景が良く判るので(全面的に信用を置けるか否かは留保しつつ)骨子を引用する。
まりやの父親の代まで経営は順調だったが長男(まりや兄)が5代目を継いでから転落が始まったという。「彼は親に甘やかされて育ったので接客業の基本が判っていなかった。よく言えば自由人ですが“顧客ファースト”という考え方がないのが経営者として致命的でしたね」(地元住民)。’14年には高円宮家の典子さまが出雲大社権宮司の千家国麿さんと結婚したことも話題になり昨今は“ヒーリングスポット”として全国的に有名になっている。環境激変が災いしたのは確かだが竹野屋が傾いた原因は5代目の振る舞いにもあった。「有能な従業員もおかしな発想を押しつけられるのに耐えられず辞めてしまう。従業員の教育もできないので仲居さんのレベルも落ちていきました。5代目女将が親族を連れてきたことで女の戦いが激化し雰囲気が悪くなったともいわれています」(地元記者)。最後にはスタッフが5人にまで減り旅館営業が不可能に。宴会や結婚披露宴は続けたものの宿泊できないので顧客はみんな近隣の温泉宿に流れてしまう。そんな厳しい実家の窮状を知って心を痛めていたのがまりやだった。竹野屋旅館は現在25人ほどのスタッフで運営。大幅なリニューアルを遂げた。「小さい頃から“美人4姉妹”の3女として地元で有名でした。“平成の大遷宮”が行われた’13年に故郷への思いを綴った唱歌『愛しきわが出雲』をプロデュースするなど強い出雲愛を持っています」(地元住民)。現在の竹野屋旅館の実質的オーナーは彼女だという。「テコ入れのために半年ほどリニューアル工事をしていたのですが改装費用のほとんどをまりやさんが出したという話です。実家の旅館が廃れていくのが耐えられなかったみたいです」(地元住民)。「5代目は昨年10月に退任し長女の娘婿が6代目となりました。昨年8月から改装を始め今年3月にリニューアルオープン。コンサルティング会社が入ってコンセプトから練り直し東京都内のコーヒーショップ店長や一流旅館で働いた経験のある若いスタッフを多く採用しています。新社長は英語に加えてフランス語もできますからインバウンド需要にも対応できます」(地元記者)。所属事務所社長の小杉理宇造氏の話「リニューアルが決まるまで何度も親族が集まって会議をしました。まりやと夫の山下達郎も参加しました。話し合いの中でお兄さんが退任を決断しました。廃業案や売却案もあったのですが結果的にみんなで資金を出し合って継続することになったんです」。彼女には自分がこれまで旅館に何もしてあげられなかった後悔の思いがあるという「両親に恩返しをしたいという気持ちが強いんですね。高校生のときにアメリカに留学させてもらい大学時代は東京で音楽に親しんだ。その結果、彼女は成功できたんです。5代目の社長であるお兄さんに対しても感謝の気持ちを持っていますよ。まりやが音楽に興味を持ったのは彼の影響もあります。だから、なにがなんでも旅館を守りたいんですよ。“私は本当に自由だった。お兄ちゃんは本当に不自由だった”とも話していましたから」。地元の旅館や商店が次々と店を閉めていくなか兄が竹野屋旅館をつぶさず守りきったことに感謝しているのだ。「まりやには“大切なものがお金で守れるんだったら、あるお金を全部はたいたっていいじゃないか。お前には山下達郎というすてきな伴侶がいるんだから”という話はしました」(小杉社長)。*引用終
現在のセンス良い「竹野屋旅館」の在り方は竹内まりやさんの渾身の努力で形成されたもの。引用されている文中で最も感銘を受けるのは“私は本当に自由だった。お兄ちゃんは本当に不自由だった”という言葉。私も家業を継いだ兄のおかげで自由に生きることが出来た。兄には本当に感謝している。その意味でまりやさんの言葉には重みを感じる。まりやさんは(山下達郎という稀代のミュージシャンを伴侶に得た)良縁を導く「現代の巫女」であり、華麗なステージングで観客を魅了する「現代の出雲阿国」であり、人と富を出雲に誘う「現代の御師」だと私は確信している。かくいう私も竹内まりやさんに導かれてこの出雲にやってきたのだ。来て良かったと本当に思う。
昔の芝居小屋では浪花節・落語・人情劇を中心とした興行が行われていた。しかし、かような伝統芸能は現代社会を生きる若者を引き付けない。現代人を魅了する娯楽は端的に言ってシティポップである。その先頭をけん引した2人(神)が縁を持っていることこそ現代出雲の宝なのだ。
チェックアウトして竹野屋旅館を立つ。まだ午前9時前なので神門通りは人が少ない。一畑電鉄大社駅に入る。出発までには相当に時間がある。左側にある旧事務室を改装したレトロな売店で並べられた商品類を何気なしに眺めていたところ大社史話会『出雲国大社観光史~参拝地から観光地へ』なる書物が売られているのに気付いた。立ち読みして速攻で購入した。これこそ「地元でしか購入できない」出雲のリアルな歴史を理解するために不可欠の本なのである。帰宅後に通読。もしも、この2回の「出雲歴史散歩」が(凡百の観光案内を超えて)それなりに書けているとするならば、全て『出雲国大社観光史』(および千家尊統『出雲大社』)のおかげである。感謝。
一畑電鉄では今も自動改札機を導入しておらず駅員さんの手によるハサミが入れられる。電車は遊郭跡の名残を残す「柳橋」を通過して、川跡駅に向かう。左に連なるのは島根半島を形成する山々だ。ウンチクを述べると、海面が今よりも高かった縄文時代において島根半島は「島」であり弥生時代から継続する斐伊川と神戸川の沖積作用によって本土と陸続きになったと考えられている。出雲「風土記」の時代には斐伊川は西流し日本海に流れ込んでいたが、江戸時代寛永年間(17世紀前半)斐伊川が流路を変えて東流するようになり宍道湖に注ぐようになったそうだ。
島根県という名称の由来は県庁の置かれた松江城が、かつて旧島根郡(嶋根郡)に属していたためとされる。「嶋根」の名は古代の『出雲国風土記』において八束水臣津野命が命名したと伝わる。明治4年(1871)7月の廃藩置県後、旧松江藩の領地に『松江県』が設置された。しかし同年11月に松江県は周辺他県と合併し『島根県』とされた。明治維新で松江藩が「倒幕に消極的であった」故の政府の意向と伝わる(県庁所在地と県名が合致しない処はその傾向があるようだ)。
右側に高さのある斐伊川の堤防が続いている(天井川)。前述のとおり寛永年間(正確には16年)西の日本海側に流れていた斐伊川は流路を変え東流するようになった。雲南の方面から運ばれる大量の砂の沖積作用により大津・武志の辺りの標高が高くなっていたところに大洪水が発生(5月)して従前の流路と無関係に大量の水が高低差に従い東に向かうようになったのではないかと思われる。斐伊川は昔から氾濫を繰り返してきた。「ヤマタノオロチ」とは大暴れする斐伊川のメタファーなのだ。その治水はこの地域で政治にかかわる者(スサノオノミコト)の責務であった。
川跡駅で乗り換えて雲州平田駅にて降車。ここに一畑電鉄の本社が置かれている。駅舎背後に広いバックヤードがあり電車庫が設置されている。この駅で映画「レイルウェイズ」(中井貴一主演)の多くの場面が撮影された。そのパネルがホームに設置されている。旅の記念に撮影した。
一畑電車の歴史に触れる(@Wikipedia)。当初は「今市」から「大社」までを結ぶ予定で構想された。鉄道院(後の国鉄)で山陰本線から分岐する路線(大社線)の計画が立てられたので(競合路線とならないよう)目的地を一畑薬師に変更した。翌1912年(明治45年)4月「一畑軽便鉄道株式会社」が設立された。地元有志で資本金の大半を負担。うち25パーセントは一畑寺が負担した。出雲今市から一畑薬師麓までの鉄道敷設は一畑寺の念願だったからである。国鉄との連絡を考慮して軌間を762mmから1067mmに変更し1913年(大正2年)9月15日起工式。出雲今市と平田間は平坦なので7か月ほどで完成し1914年(大正3年)4月29日に一畑軽便鉄道の運行が開始された。その後、平田から一畑坂下までの工事も進められ1915年(大正4年)2月4日全線開業した。1923年(大正12年)7月株主総会において大社までの路線延長を決議。大社への延長路線は(当初は今市から大社へ国鉄大社線と並行する計画だったが)国鉄の競合路線とみなされ許可されなかった。そのため武志から大社へ繋ぐ路線に変更し「一畑薬師への参拝客も利用可能」と主張。その結果として1924年(大正13年)9月敷設免許が得られた。1925年(大正14年)社名を「一畑電気鉄道株式会社」に改称。1926年(大正15年)大社路線の起点を川跡とする変更が認可された。
戦後は1958年(昭和33年)10月に一畑百貨店を松江市に開店していたが、出雲市にも一畑百貨店を出店するため国鉄出雲市駅に隣接してターミナルビルを建設。1964年(昭和39年)4月に供用を開始した。国鉄駅構内への乗り入れを中止しビル1階に独立駅「電鉄出雲市」駅を設けた。
1966年(昭和41年)以降は鉄道部門で赤字を計上。1967年(昭和42年)589万人をピークとして利用者が減少した。1972年(昭和47年)度には累積赤字が5億円。大社町町議会で鉄道の存続要請を全会一致で可決し1973年(昭和48年)には島根県と沿線自治体で「一畑電車沿線地域対策協議会」が結成された。1974年(昭和49年)以降は運輸省から欠損補助金を獲得。さらなる合理化を進めた。鉄道部門従業員数を110人にまで減少させた。その後も合理化は進められ、1973年(昭和48年)貨物輸送を廃止、特急の通年運行も中止。1978年(昭和53年)大社線のワンマン運行も開始された。1984年(昭和59年)時点では社員配置駅は雲州平田と松江温泉の2駅だけとなった。
1980年(昭和55年)度からは補助金を近代化補助制度に変更した上で一部車両の置き換えや重軌条化など設備の更新を行ったが会社負担率の高さや電力費高騰などから1984年(昭和59年)度以降は欠損補助制度に戻した。1992年(平成4年)度の輸送人員は171万人とピーク時の3割程度に。赤字額は年間1億円を越えた。冷房車は1両も存在せず1927年(昭和2年)製造の手動扉の半鋼製車両が1990年代に入っても運用されていた。駅は荒れ果てており委託駅員が配置されている川跡駅でさえ廃屋に近い状況であった。1992年(平成4年)運輸省は欠損補助の大幅な制度見直しを実施。打ち切りもありうると通告された。一畑電車沿線地域対策協議会は1993年(平成5年)度広告予算を年間120万円程度から680万円へ増額し利用促進活動を行った。自治体の動きを受け一畑電気鉄道は欠損補助と近代化補助を同時受給することを前提に1993年(平成5年)11月に経営改善5ヵ年計画を発表。駅施設整備や老朽車両置き換えを軸に総額5億7千万円に上った。自治体の援助や会社の努力を認めて運輸省や大蔵省は1994年(平成6年)度以降の補助金継続と欠損補助近代化補助の併用を承認。同年から1998年(平成10年)にかけ京王電鉄と南海電気鉄道から冷房付車両を購入。駅設備改修も1994年(平成6年)から1997年(平成9年)にかけ進められた。運輸省からの欠損補助は1997年(平成9年)度を最後に終了し1998年(平成10年)度以降は新しい経営改善5ヵ年計画による島根県沿線自治体の「運行維持補助金」に変更されている。そのような厳しい状況の中で製作された映画「レイルウェイズ」による広告効果は大きかった。私もその流れで今一畑電車に乗っているのだ。
雲州平田駅の前にあるバス停の時刻を確認。うまい時間にバスが出るのなら鰐淵寺(数百年も出雲大社との神仏習合関係を築いていた古刹)まで足を運ぼうかと思っていたのだが、かなり待たなければならないことが判明したので断念。「木綿街道」に向かって歩き出す。湯谷川と長通川を越えると古い街道筋に入る。向かったのは宇美神社だ。「縁切り」の御利益があるとされる。出雲大社は「縁結び」の御利益を前面に出している。バランスをとるため「縁切り」を参拝者に願ってもらうのは意味がある。実際、60年以上生きてきた体感として「相性の良い人と付き合おう」とするより「相性の悪い人と付き合うのを止める」ことのほうが運を良くする効果があるように思われる。
木綿街道のランチは「trattoria814」が人気店だとネット上の情報を得ていたので、店の前まで行ったものの予約客で一杯で入店できなかった。残念無念。駅に戻る途中の道端に福祉系の方が開いているように感じる気軽なランチショップがあったのでそこで昼食。ゆっくり休憩できた。
駅に戻り松江行電車に乗る。一畑口のスイッチバックが面白い。線路の切り替えを凝視。進行を止めた電車の運転手が小走りに走ってきて運転席に乗り逆方向に走り出す。スイッチバックならではの醍醐味だ。通常スイッチバックは高度差を克服するために山岳地で用いられるが、平地なのに何故?これは一畑電車の歴史が関係している。戦時中1944年(昭和19年)11月16日、一畑電車は「小境灘から一畑の区間は不要不急」として営業を休止するよう運輸通信省から命じられた。線路は撤去し「その軌条を戦時輸送を行っていた名古屋鉄道に供出するよう」命じられた。同年12月10日に一畑薬師までの運行は中止させられた。スイッチバックはその結果として生じたのだ。納得。
雄大な宍道湖をみながら電車は走る。初めての人は「湖」とは思えないほど宍道湖は広さを感じさせる。電車は松江温泉駅に到着。温泉の泉源である「温泉地蔵」まで足を運び近くにある公衆浴場に入館した。ほっと一息。松江温泉駅からバスに乗る。バスは市役所前・県庁南を経由してJR松江駅に着いた。空港行きの高速バスが出発する時間まで間があるのでカフェに入りお茶する。
高速バスに乗車。バスは山陰高速道路に入る。宍道湖を右手に観ながら気持ちの良い旅。バスはやがて「出雲縁結び空港」へ到着した。この空港は昭和41年(1966)斐伊川河口に建設された。当初は短い滑走路でジェット旅客機は発着できなかった。1970年に滑走路が1500mに延長され1976年にジェット化が実現した。1991年に滑走路が2000mになった。そのために東の3分の1くらいは宍道湖に突き出す形になっている。旅行の締めに最後の出雲蕎麦をいただきながらワインをいただく。保安検査場で変な動作音が鳴ることはなかった(&)。初めて乗るAТRへは地上を歩く。小型機とは言え、目の前で見る航空機は巨大である。昔のバスの如き後乗りの作りが面白い。乗降が便利なように最前列の席を予約していたのだが(後ろ乗りなので)乗降が一番不便であった(苦笑)。
飛行機は夜の闇の中を離陸し福岡空港に向けて高度をあげた。竹内まりやさんと一畑電車に導かれ訪れた夢のような出雲2泊3日の旅はこうして終わっていった。(終)
*2025年5月10日マリンメッセ福岡にて「竹内まりやコンサート」を拝聴しました。今回の出雲の旅はその「予習」として企画したものです。生涯残る記憶となりました。感謝。

