歴史散歩 Vol.182

ちょっと寄り道(別府2)

2日目は別府の地学的特徴や哀しい歴史を踏まえながら駅西(山)側を廻りました。
(参考文献:平岡昭利「地図で読む100年(九州)」古今書店、下川正晴「占領と引揚げの肖像BEPPU1945~1956」(弦書房)、松田法子「絵はがきの別府」左右社、NHK「ブラタモリNO.12」(角川書店)、JR九州プリーズ「九州ものしり学」海鳥社、高柳友彦「温泉旅行の近現代」吉川弘文館、益田啓一郎「美しき九州:大正広重・吉田初三郎の世界」海鳥社など)

ホテルは朝食抜きのプランにしていた。別府駅に赴きカフェで軽い朝食をとる。私はこれくらいが丁度よい。駅の西側、歩いて5分程の距離に市営「田の湯温泉」がある。市営にしてはとんがり屋根が2つ並んでいるカッコ良いデザイン。朝6時半から開いているのが嬉しい。200円。近所の人が気軽に入りに来ている。熱めの湯につかって身体が目覚めた。気分よく出発。
 西に歩きながら「別府は何故日本一の温泉地になったのか」考える。まずは地学的な観点。「ブラタモリ№12」によると答えは「断層と扇状地」。別府は北側(明礬・鉄輪・芝石・亀川のライン)に鉄輪断層があり南側(堀田・観海寺・別府・浜脇のライン)に朝見川断層がある。両側に引っ張られることによって間が沈んでいる(これは別府だけの現象ではなく「九州全体が南北に引っ張られている」のだという)。断層の間が沈むことで生じた別府地溝帯は山間部(西)から海岸(東)に向けて下がっているので扇状地となる。このために「活火山(伽藍岳)の地下で生じた熱水」が「断層帯の裂け目を通って地表に現れる」ことにより量質ともに豊富な温泉となっているらしい。
 ただし自然条件だけでは別府の興隆は無かった。人間の努力が不可欠だった。油屋熊八を筆頭とする民間だけではなく行政も努力した。明治44年に別府町役場に設けられた温泉課は積極的にPR活動を行い、同年の鉄道開通と翌45年の大阪商船別府航路開設によって九州のみならず関西方面からも多くの旅行客が別府を訪れるようになった。上記「PR活動」にあたり絶大な効果を発揮した人物がいる。吉田初三郎である。「大正の広重」と称される初三郎は大阪商船の紹介で油屋熊八(亀の井旅館創業者)と出会い、意気投合して別府宣伝のために大いに力を尽くした。別府「亀の井ホテル」には今も初三郎の「別府温泉鳥観図(原図)」が残されている。別府宣伝協会に初三郎の鳥観図があり、別府市美術館に別府市鳥観図が残されていて、別府市役所温泉課には「天下の楽土・別府温泉」なる初三郎のポスターが残されている(いずれも大正13年)。熊八が創業した「亀の井自動車」には「別府近郊高級乗合自動車周遊線地獄巡り」のポスターがある。別府市が主催した「中外産業博覧会」用の鳥観図もある(いずれも昭和3年)。初三郎は、徳富蘇峰に対する書簡の中で「親子の如き間柄」の油屋熊八が開催する催しに対して蘇峰が共感を寄せることを願っているという(昭和6年)。
 別府は「軍事保養都市」即ち、戦争による怪我や疾病を治す保養地たる性格もあった。多くの陸海軍の病院や保養所が存在した。陸軍病院は町田(現在の国立病院機構西別府病院)海軍病院は亀川に(現在の国立病院機構別府医療センター)九州帝大温泉治療研究所は鶴見原に(現在の九州大学別府病院)満州製鉄所別府療養所は南石垣に(現在の大分県厚生連鶴見病院)各々所在した。疾病軍人温泉療養所は国立別府保養所に、満州電電別府療養所は(接収された後)新別府病院になった。
 別府は国際的「モダニズム都市」でもあった。大正14年にオープンした「鶴見園」には専属の歌劇団があり「西の宝塚」として有名だった。野口雨情は「別府この世の極楽なるに地獄めぐりと誰が付けた」と書いた。この歴史を背景にして、敗戦後、別府に3万人以上もの引揚者や復員者が殺到した。初代民選市長:脇鉄一は京城(現在のソウル)からの引揚者である(元京城高等法院判事)。脇は1955年、市長退任後に弁護士登録した。西口彰の(1963連続殺人事件を起こす前の)詐欺事件の弁護を行っている(西口章は小説や映画になった「復讐するは我にあり」のモデル:殺人5件、詐欺10件、窃盗2件の公訴事実により死刑判決を受け福岡拘置所にて1970年刑死)。他にも有名な引揚者として秋吉敏子(ジャズピアニスト)と大迫正富(ゼンリン創業者)がいる。

歩いていくと直行する南北の広路に面して「別府市公会堂」がある。内部を拝見したいが、当日は行事の準備が行われていて物見遊山の観光客は中に入れなかった。残念。この建物は市制施行を記念して建築された。敷地の一部はかつての麻生太吉の別荘である。設計は吉田鉄郎。竣工した1928年(昭和3年)は中外産業博覧会が開催されており、その開催日4月1日夕には本公会堂の地下食堂にて580人が列席する宴会が開かれた。近くの道路脇に「別府簡易裁判所」がある。別府は大分県第2の都市であるが簡易裁判所しか設置されていない。別府市内で重要な(地裁管轄の)事件が起きても当事者は訴訟対応のため大分市まで出向かなければならない。難儀。高級住宅街の中を歩く。
 20分ほど北に歩くと広大な公園が見えてくる。「別府公園」である。別府公園は明治40年(1907年)に完成した。現在の公園南側一帯(テニスコート)が本来の(当時の)別府公園である。完成直後に皇太子時代の大正天皇が巡幸している。昭和3年(1928)に中外産業博覧会、昭和12年(1937)に別府国際温泉観光大博覧会が、ここを主会場として開催された。
 この地は第二次大戦後に接収され米軍基地「キャンプ・チッカマウガ」となる。チッカマウガとは「チッカマウガ戦争」で知られるインディアンの呼称である。県と市は、最近まで敵だった米軍(占領軍)を「歓迎」するため、21万円(当時の額面)もの公金をつぎ込まされた。屈辱的なことだった。この野口原の丘陵に兵舎・倉庫・教会など23棟が建設された。1956年までに2千から1万人規模の米軍兵士が駐屯した。兵士目当てのパンパンが最盛期には800人から1000人近くも存在した。パンパンハウスは百数十件を数えたという。特定の米兵と契約している女性は「キープ」「オンリー」と呼ばれ山の手の高級住宅街に部屋借りをした。米兵と結婚しアメリカに渡った女性も少なくない。ちなみにキャンプは現在の別府公園の範囲にとどまるものではなく西北方向にも広がるものであった。将校や下士官の宿舎、劇場や学校、下士官クラブなどは現在の山の手町や野口原に広範に存在した。別府は(戦後10年間)米軍キャンプが置かれた「被占領都市」でもあったのだ。元パンパンハウスの経営者だった佐賀忠雄は著書「別府と占領軍」の中でこう述べている(下川より孫引き)。
 

別府で生まれ別府で育った私にとって別府は切っても切れない故郷であり、へその緒が繋がった母である。風化していく別府の戦後史、被占領体験は苦しいものでしかなかったが、その事実を直視することによって私は自分の拠って立つべき場所を求め続けてゆく。それは戦後がどこに自分の歴史的な位置を発見するかという問いかけでもある。

彼が残した「別府と占領軍」は優れた歴史資料である。「闇に包まれた地方の戦後史」が忘却されないように将来に語り継いでゆくのは、おそらく郷土史家の役割のひとつなのだと思う。
 キャンプは昭和32年日本政府に返還された後、しばらくの間「陸上自衛隊別府駐屯地」として使用された。自衛隊駐屯地が鶴見へ移転したのに伴い、昭和51(1976)年に別府市へ返還された。同年、昭和天皇御在位50年記念公園の指定を受け再び「別府公園」として整備された。公園の中央に「チッカマウガツリー」と呼ばれるヒノキの高木がある。駐留米軍によって植えられたもので日本最古のクリスマスー・ツリーとされる。別府の悲しい歴史に思いをはせて合掌する。

別府公園を出て西に向かって歩く。10分ほど歩くと「ビーコンプラザ」に着く。平成7年(1995)オープンした県立別府コンベンションセンター(国際会議場)と市民ホール(コンサートホール)からなる複合施設である。設計は大分県出身の建築家・磯崎新。「グローバルタワー」は高層建築が少ない別府の市街地で極めて目立つ存在である。エレベーターシャフトでもある円柱状の支柱2本と弧を描く支持部から構成される。天空に向かい大きく弧を描く部分は(別府公園中央部の標高ゼロメートル地点を中心とする)直径1kmの巨大な仮想球の一部をなす曲面を想定する。最上階付近にオーバーハングを大きくとった展望室がある。私も入場料を払って最上部に上がってみた。が、高所恐怖症気味の私はエレベーターを出て外に出たとたん廻りの風景に足がすくんで強い不安感を覚えた。たぶん若い人には楽しい所なのであろうが、還暦を超えた人間にはちょっときつい。当然ながらオーバーハングの展望室など行けるはずもなく足早に下りエレベーターに乗る。地上に戻り安堵。
 道路を渡ると「京都大学地球熱学研究施設」がある。小ぶりであるが見事なレトロモダン建築だ。1923年(大正12年)12月に竣工した。設計は永瀬狂三(京都帝国大学施設部)。煉瓦造で地上2階半地下1階。L字型平面であるが正面から見ると左右対称である。中央に塔屋と玄関が位置している。「赤煉瓦の柱型が大小交互にリズミカルに配されており、イオニア式の柱頭などの要部は白い石貼りとされて全体を引き締めている」なる批評がある(Wikipedia)。大正時代の質実剛健的な感じが心地よい。1997年(平成9年)有形文化財に登録されている。前述の「ブラタモリ」テキストが述べる地球科学的な知見はこういった学術研究施設の地道な長年の研究成果によるものなのだ。

東に向かい歩く。目指すは「別府大仏」。知らない方が多いであろう。実業家:岡本榮三郎により建立された。岡本は出家し「榮信」と名乗り大正14年(1925年)大仏建立計画を発表する。工事は昭和3年に完成し落慶法要を迎えた。像高24メートル(奈良の大仏より8メートルも高い)の堂々たる鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来。コンクリートに遺骨や遺髪を混ぜた骨仏でもあった。蓮華座内が三層構造になっており、1階に戒壇巡りと大ホールが設けられ・2階に三十三観音と八十八ケ所の写し霊場があり・3階に不動明王・薬師如来・大日如来・双子権現・文殊菩薩・善光寺菩薩などの6体の仏像が祀られていた。榮信は大仏を本尊とした「榮信寺」を開山し自ら住職となった。別府大仏は「地獄めぐり遊覧バス」と並んで「別府の新名物」となり参詣者で賑わった。当時の絵葉書で「東洋一を誇る大佛」と紹介されている。この大仏、今は無い。解体されたのは平成元年(1989年)。意外と新しい。これは露天のためコンクリートの風化が激しく維持できなくなったことによる。既に昭和40年代には内部拝観が停止されていた。現在「榮信寺」跡近くにある「宝持寺」の墓地となり1/10スケール「ミニチュア仏」が祀られている。1/10であるが、目の前で見ると結構な大きさで、かなりの衝撃を受けた。内部には先の大戦を偲ぶ物が多く祀られている。合掌。

北に歩くと「境川」がある。活火山である鶴見岳の影響や急勾配の河川のために、別府では頻繁に土砂災害が発生していた。そのため昭和7年(1932年)頃から砂防工事が始められ、昭和18年までに砂防堰堤24基・床固工39基が設置された。昭和50年(1975年)には九州横断道路との交点の約700m上流に(当時大分県内で最大の砂防ダム)境川ダムが完成している。
 歩いて別府駅に帰還する。昼食を構内の洋食店でとった。まだ帰るには早いので再度「駅前高等温泉」に赴く。前回は「ぬる湯」であったので今度は「熱湯」にチャレンジした。しかし文字通り「熱い湯」であり普通の素人にはとても入れないような温度である(大げさに言えば「やけどする」如き温度)。どうしようかと思ったら、階段下に洞窟の如き風情の小さい湯船があり、こちらは比較的に普通温度の湯である。私はこの湯につかって別府最後の温泉を楽しんだ。大満足。
 湯上りついでに2階に向かう。番台さんに声をかけて階段を上る。雑魚寝の雰囲気だ。昔のフェリー2等船室の感じ。個室は1人2,600円・広間は1人1,600円。素泊まりのみ。近くには飲食店がたくさんあるので食事には困らない。今度1人で別府に泊まる機会があれば是非とも利用したいと思う。

高等温泉を出て坂を上り駅を通り抜けてホテルに戻り荷物を受け取って帰路に就く。
 別府は今苦境にある。それは近くにある「由布院」との対比でも明らかだ。「個人」をターゲットにして静かな湯治を楽しむ位置づけを明確にした由布院が社会の成熟(個人旅行志向)により名声を高めたのに対して「団体」客に力点を置きバスガイド・地獄めぐり・遊園地などで賑わった別府は(団体旅行減に伴い)観光客の減少に悩んでいると聞く(あくまで最盛期との比較)。
 別府を訪れるたびに豊富な温泉とこれを生み出した自然に本当に感心する。しかし前述したとおり自然条件だけでは別府の興隆は無かったのである。昔の人は努力したのだ。油屋熊八を筆頭とする民間だけではなく行政も努力した。温泉課は(当時としては異例なほど)積極的にPR活動を行い、鉄道開通と航路開設によって多くの旅行客が別府を訪れるように誘導した。「PR活動」にあたっては吉田初三郎という天才とタッグを組み絶大な効果を発揮した。こういった人的な資源こそが別府を豊かにした。別府は今こそ「現代の油屋熊八と吉田初三郎」を必要としているのだと思う。(終)

*2025年年6月26日の記事(FNNプライムオンライン)。極めて重要な観点だと思います。別府の温泉資源も「無限」ではないのです。以下、引用。
 別府市は年間約680万人の観光客が国の内外から訪れる人気の観光地である。しかし近年、温泉の「温度の低下」や「湯量の減少」といった問題に直面している。大分県と京都大学などが別府市中心部にある19の源泉の温度を調べた結果、1870年に100℃近くあった温度は1990年ごろには40℃近くに。その後、少し上昇したが現在も50℃前後に留まっている。そして約100年後には再び40度近くにまで下がると予想されている。高度経済成長期に観光業が栄え大量に源泉を掘削したために温泉の量も減少傾向にあるという。県生活環境部自然保護推進室の羽田野康仁室長は「需要と供給の問題で(湯が)使われれば当然減る。使う量を抑えれば確保出来るということになるので実際の状況を見てみても使える量が若干増えていたのかなという感じはある」と話している。(略)温泉の仕組みは様々だが別府市の場合は雨水がマグマ溜まりで温められ温泉となる。この温泉をとり過ぎると当然枯渇してしまう。雨が降れば良いのではと思うかもしれないが雨水を温める十分な時間が無いと温度が低くなってしまう。今まさにこうしたリスクが高まっている。また湧出量が増えていることについて京都大学の大沢教授は地熱発電に温泉が活用されていることも要因の1つと指摘。県などが100年後の別府市内の温泉はどうなっているのかシミュレーションしたデータによると、今と同じ温泉の量を使い続ければ麓の源泉の温度は下がり続け80℃近くあった場所がなんと30℃台になる場所もあったという。対策として県は昭和の時代に別府市内で新規掘削を認めない特別保護地域3か所を指定した。しかし問題が解決しないことから2023年より温度が高い温泉が流れる「西部」と「南立石」2つの地域での掘削を新たに規制している。また地熱発電を行う業者には環境に影響を与えないか確認するため温泉の使用状況をモニタリングすることを条件としている。「温泉は無限にあるものでは無い」ということを改めて認識するだけでも温泉を守る一歩になるかもしれない。

 

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