田中吉政の遺産2
今回は田中吉政が筑後で行った「広域行政」の具体的内容を紹介します。近世筑後の骨格ができていく様子が御理解いただけると思います。以下、財政の確立・新田の開発・河川の対策・陸上交通と城下町整備という順番で検討します。(本稿は2014年にアップしていたものですが「田中吉政公時代展」「久留米ヒストリアカフェ」などの議論をふまえリニューアルしました)。
(財政の確立)
当時の財政は米を基準にしていました。基準は2つありました。幕府によって公認された石高(表高・朱印高)と現実の収穫量を基準に各藩が定めた石高(内高)です。表高に応じて各藩の軍役編成や江戸城の城普請・川普請などの大名手伝いの基準や江戸城内の席次が決められました。他方、農民に課される年貢は検地して定められる内高に応じて賦課されます。農民の屋敷地や農地面積を一筆ごとに測量し、土地の肥脊に応じて石盛(反当収穫量)を定め、農民一人当りの持抱高が設定されます。それを村毎に集計して村高が定められ、この村高に応じて一定の免率(年貢率)を掛けて年貢が算定されるのです。筑後の場合、田中入部以前に山口玄蕃(小早川隆景の養子として秀秋が下ってきたときに太閤から付せられた家臣)が文禄4(1595)年に行った太閤検地(農民に優しいもの)がありこれを基礎にした「玄蕃高」が設定されていました。吉政は入国後まもなく検地を実施しますが玄蕃高に机上で適宜修正を加えた程度だったようです。慶長12(1607)年の賦課でも玄蕃高をそのまま年貢徴収の基礎にしていた例があります(久留米市史第2巻78頁)。かかる穏やかな政策が後述する土木工事への農民の従順な協力を引き出していたのでしょう。(*田中改易後に久留米藩主となった有馬豊氏は「玄蕃高が甘すぎる」として内高を表高の5割増に設定し高税率をかけました。この厳しい政策が有馬藩における百姓一揆の頻発に繋がります。「薩摩街道と松崎宿」「天才と馬鹿殿」参照)。他方で吉政は、従来は補足されていなかった耕地や新たに開拓された土地への課税を企図し台帳提出を在地庄屋に要求しました。吉政は単純な税率アップではなく課税ベースを広げることで税収を増やそうと考えていたのですね。
(新田の開発)
吉政は自ら新田開発に積極的に乗り出しました。吉政が慶長7(1602)年、大川新田から三池郡高田町にわたって吉政が築かせた土居(約24キロメートル)は「慶長本土居」と呼ばれています。(下図は「秀吉を支えた武将・田中吉政」より引用。)
工事は同年8月6日から8月8日までの3日間(干潮になる時期を選定)山門・三潴・下妻の農民数万人を動員して一気に行われました。深さ約1・8メートル、幅は羽根の土取り幅分で掘り起こした土を表の堤に積み上げて固める土盛り工法です。羽根の絵図をもとに築堤の工法は宮川才兵衛(鷹尾城番)が指示しました。25キロメートル以上に及ぶ工区の1町(約109メートル)毎に奉行が立会い、夫々の工区で現場指揮を行ったのです(2018年5月12日「半田隆夫講演会」)。土居の内側が干拓されて広大な農地が形成されました。大和町江越の人々は「慶長本土居」の上に灯台を築き、皿垣地区の船着場灯台としました。その痕跡が残されています。現在の灯台の台座は江戸時代中期のものです。今の地図で見ると皿垣地区は海岸から遠く隔たった内地にありますが、吉政が入部した頃はこの辺りまでが有明海の海岸だったのです。
干拓はその後も近年まで継続的に行われてきました。意識的にこの付近の地図を観察すれば干拓による海岸線の後退の状況を視覚的に捉えることが出来ます。吉政は筑後川沿岸の開発も積極的に行いました。慶長6(1601)年、津村三郎左衛門に大野島・古賀龍珍に新田村63町など左岸地域を開発するとともに右岸寄りにある中州の葭野も開いて下田(城島町)芦塚(同)を開拓しています。
(河川の対策)
吉政が本城とした柳川は(軍事的意味では要害堅固でしたが)日常生活の場として致命的欠陥がありました。それは「水」の不足です。柳川は「水郷」として水が豊かなイメージがありますけれども、柳川は昔から水不足に悩まされているのが実情。柳川は多くのクリークで囲まれていますが、動かない水は水質が悪く飲用には適しません。柳川には良質の地下水もありません。そのため吉政は都市飲料水を確保すべく「矢部川から沖端川へ・沖端川から二ッ川へ」という水利体系を確立しました。二ッ川の水を城内の堀に通すことで上質の飲料水を確保することが出来たのです。そのためには沖ノ端川の改修・二ツ川堰の構築・用水路の掘削維持と水利慣行の確立など農民の多大なる努力が必要でした(観光を支える「川下り」はその賜)。柳川城内を網の目のように走る水路は細分化された川。ゆえに「川下り」と言うのです。城堀水門を通るときは結構な水流を感じます。
他方、吉政は筑後川に於て梅林寺から瀬ノ下(水天宮付近)まで新川を開削。当時筑後川は大幅に蛇行し(長門石北を回り)流れていました。久留米城は大雨が降ると常に洪水の危険に晒されていました。これでは治政に支障が出ます。吉政はこれを危惧して筑後川の流れを付け替える大胆な方策を試みたのです。この辺りは岩盤が固く工事は難航しましたが、農民の多大なる労力の賜により見事に直流化(ショートカット)は成功しました。直流化によって長門石地区が飛び地となったため、ここに渡し船が設けられるようになりました。(筑後川のショートカット工事は事後も行政による治水対策の基本となり、近年まで工事が継続されてきました。現在の筑後川の流路はところどころ行政上の境界から大きく離れています。多くはショートカット工事により生じたものです。)
(陸上交通と城下町整備)
本城柳川と最重要支城久留米の連結を図るため、吉政は軍用道路の構築を指示しました。柳川から久留米に至る行程約20キロの柳川街道(柳川往還)です。現在も主要幹線道路として地域経済に重要な役割を果しています。(福島を経て黒木に至る行程約24キロの新道も構築)。
(図面は「秀吉を支えた武将・田中吉政より引用)
柳川街道に沿う下田・金屋・横溝・大角・土甲呂(とごろ)・田川・山野・目安・津福などの町屋敷を吉政は「御免地」(税を免除した地域)にしました。吉政は特権を与えることで域内の流通圏整備を図ったのです(安土を繁栄させた信長の楽市楽座をイメージしたものでしょう)。入植した住民はあげて吉政の徳をたたえ、現在まで続く「御免地祭」を行うようになりました。街道沿いには吉政の徳を顕彰する神社があります。
街道整備は軍事的リスクを伴います。敵がこの街道を通って攻め込んでくることが予想されるからです。柳川城の堅固さは広大な堀と周囲の無数のクリークによって支えられていました。堀やクリーク上は平時に橋が架けられていますが、いざ戦いになれば橋を切り落とさなければなりません。この橋を切り落とす作業は街道沿いの者が行うことになります。街道沿いに住む者が主君を裏切ることのないように感謝の念を惹起させるという政策的な意図もあったものと思われます。
柳川往還は道の両側を堀り掘った土を盛り上げて形成された道路でしたが、近年の県道化工事の際、脇の堀の多くは埋め立てられました(一部は暗渠)。そのため吉政がつくった頃の往還道の様子はほとんど見失われています。1箇所だけ昔の面影が残っている場所があります。矢加部信号の南側(矢加部地蔵尊の向かい)です。柳川に入るにはこの道路を直進し突き当たりを右折して「井出の橋」に向かうルートが一般的でした。車社会化に伴い信号南側で右折する広い道路が形成されたため直進するこの部分だけが(幸運にも)取り残されました。そのために我々は今もなお道の両側に溝が残る往時の柳川往還の様子を確認することが出来るのです。
柳川城下町の基本骨格は吉政時代につくられました。「井出の橋」は柳川の最も重要な出入り口であり、橋を渡ったところに大きな御門が設けられていました。
御門を過ぎると保加町(外町)上町・中町と商業地が続きます。その先には「札の辻」がおかれた辻町があります。辻町には大きな御門と橋(辻門橋)が設置され「御家中」(武士の居住区域)に入る者を監視していました。現在、辻門橋を過ぎたところに県立伝習館高校があり、その前に福岡地裁柳川支部があります。
(総括)
田中吉政は短い治世の期間に筑後国全体のインフラストラクチャー(新田開発・河川対策・陸上交通と城下町)を整備していきました。もちろん整備のための労働力を提供したのは農民です。農民の過酷な労働なくしては吉政は何も為し得ませんでした。しかしながら広域を見据えた土木技術の展開においては将来を見据えた大局的ビジョンが最も大事です。政治を預かる者が大局的ビジョンを持てなかったがために一般人が酷い状況に陥った例は歴史上数多く見受けられます。現代まで筑後地区に多大の恩恵を与えている江戸時代初期の「公共事業」は、近江八幡や岡崎において土木技術を磨いていた、田中吉政という優秀な武将の先見の明によるものと言えましょう。筑後人でも「久留米は有馬藩・柳川は立花藩」という認識の人がほとんどで、筑後全体のインフラを整備した田中吉政を知っている人は極少数にとどまります。田中吉政への認識が深まることを私は期待しています。(終)
* 郷土史家田中泰裕様から次の指摘をいただきました。感謝。本文の記載を削除しました。
花宗堰は(久留米藩と柳川藩の水争いに於いて)久留米藩が1685年頃から造った堰の様です。名前も「立花宗茂公から付けられた」というのは後の世だと考えます。元々「花宗」と言う地名があったので花宗川から花宗堰と名付けられたのでしょう。「宗茂」は、田中家改易後、柳川に戻られた頃の名前で時代が違います。筑後川河川事務所に花宗堰の事が書いてあります。