歴史コラム(感想戦としての歴史)
対局後に対局者や立会人が混じり1局を振り返って「ああでもない・こうでもない」と語り合っているもの・あれが感想戦です。プロ棋士の対局では概ね行われています。負けた側は自分のどの差し手が問題であったのかを理解しないと敗局が身に付きません。プロ棋士の対局は「良い手を指したほうが勝つ」のではなくて「正着を外した方が負ける」というレベルの争いであるからです。一般的な感想戦は問題となる局面の検討に時間が費やされます。どこで形勢が分かれたかをピンポイントで調べます。問題となった手を検討し、これに代わる手があるか否かを議論します。「こうやるんでしたか」「それで難しい将棋でしたね」という落ちが付いてお開きになることが多いようです(「波乱盤上・将棋界の光と影」あすか書房184頁)。
感想戦の概念を変えたのは羽生善治であると保坂和志氏は言います。従前「最善手」という言葉は対局結果から遡及的に考えられていました。実際の対局結果(人間対人間の勝負)が絶対視されていて、その結果に結びつく有効な手が「最善手」とされていました。しかし、羽生さんは結果から跡づけない「最善手」の概念を打ち立てます。保坂氏によれば、羽生さんがイメージする「最善手」は人間の意図を超えたものです。人間が将棋を指しているのではなく、人間は将棋に指されているのです。最善手とは将棋の法則を実現させていく指し手です。それは結果とは別に対局中にも常に存在します。かかる「人間-将棋」観の逆転は、人間中心主義の脱却を目指す現代の哲学や生物学の考え方にも通じると保坂氏は述べています(保坂和志「羽生・21世紀の将棋」朝日出版社)。
日本の歴史教育は結果を絶対視し過ぎる。結果を丸暗記しても歴史を理解したことにはなりません。歴史を理解するには、その時々で対局者(歴史主体)にいかなる局面(問題状況)が与えられていたのかを実感する必要があります。どの局面で形勢が分かれたか、代わる手があったのか、その時点における最善手は何であったのかを考えるべきです。こういう観点の歴史教育は欧米では早くから行われており、高度の歴史認識を身につけた者だけが「政治」を担うことを許されます。日本の閣僚が感想戦において小学生並みの「歴史認識」を披露するのを聞くとき、私は「この国は永久に政治のプロにはなれない」そう思うのです。