歴史散歩 Vol.15

有馬記念の産みの親

 久留米市における石橋正二郎氏の貢献に匹敵するのが、倉敷市における大原孫三郎氏の貢献です。大原氏は倉敷紡績の社長や中国銀行の頭取として活躍する一方、大原美術館や倉敷中央病院の開設、大原社会問題研究所の運営など百年後を見据えたような素晴らしい知的遺産を残されました。石橋氏がブリヂストンを経営しながら石橋美術館・九州医専(現久留米大学医学部)及び付属病院の開設・市内の教育機関への多大の寄付などを行っていることに並ぶものです。両氏に共通する「蓄積した利益を社会に還元する」活動には思想上の先達がいました。大原氏の場合、それは石井十次という社会運動家に求めることが出来ます(城山三郎「わしの眼は10年後が見える」新潮文庫)。では石橋正二郎氏の場合は誰なのでしょうか?明確な根拠があって言うのではないのですが、私は久留米藩の藩主の血筋を引く有馬頼寧(よりやす)という変わった人物であると考えます。

 有馬頼寧は有馬家の第15代当主として明治17年12月17日に生まれました。明治22年生まれである正二郎より5歳年上です。実母は岩倉具視の5女である恒子。しかし両親は明治18年2月に離婚。恒子は森有礼と再婚して森寛子となります。頼寧は乳母に育てられ実母と触れ合うことは全くありませんでした(このことが事後の女性遍歴の背景にあるのかもしれません)。明治36年2月頼寧は北白川宮能久親王の第2王女である貞子と結婚して皇室と縁戚関係を持ち、何も考えなければ、伯爵としての何不自由ない人生が約束されていました。ところが頼寧は大正7年頃、社会主義思想に接近し、以後とても華族とは思えないような大胆な行動を始めます。当時は、現代では想像できないほどの凄まじい格差と貧困がありました。そのため他の華族の中にも貧困者に同情的なものは多くいました。が、頼寧が他の華族と違うところは、同情するだけではなく具体的にその救助策を実行したことにあるのです。
 頼寧は大正8年に近衛文麿・木戸幸一・徳川國順ら上層華族を説得し信愛会を設立。貧民の上級学校進学の機会を設けるため信愛学院(夜間中学)を創立し、大正9年には浅草区橋場・玉姫・山谷・吉野町に貧民向けの無料診療所を設立します。大正10年には日本教育者協会を設立して教員の資質向上を図ろうとします。大正10年、頼寧は部落問題解決のため同愛会を設立し会長になります。牧野伸顕(大久保利通の子)の支援を得て同愛会に対する渋沢栄一の協力を獲得します。大正11年には日本農民組合の結成に尽力し、全国水平社が結成されるや強く賛同し積極的資金援助を行います。かような頼寧の社会事業のため、有馬家は多額の財政支出を余儀なくされました。資金が足りなくなると、頼寧は家屋敷を担保に銀行からお金を借りて事業に支出しました。そのため旧久留米藩の旧臣や家職は「お上は社会主義者でござる」と困惑していたようです。頼寧はこう話していました(「先人の面影・久留米人物伝記」久留米市463頁)。

いわゆる社会事業をやるのは、僕たちのように、何の苦労もなしにただ先祖から譲られた財産で恵まれた生活をしている者の、社会人としての義務であると思う。

 大正13年、頼寧は久留米から衆議院議員に立候補します(小選挙区・政友会から出馬)。華族でありながら衆議院に立候補したのは、頼寧が部落解放問題などを通して華族制度の廃止を唱え、貴族院改革論を提唱していたからです。頼寧は衆議院議員になると大正15年には議会内に融和問題研究会を結成し、部落問題の解決を政府にせまりました。かような頼寧の活発な活動は昭和2年に実父頼萬が死亡したことで頓挫します。華族の戸主には衆議院議員の選挙権も・被選挙権もありませんでした。頼寧は伯爵の地位を相続しなければ衆議院議員を続けることが出来ましたが、かかる選択をせず衆議院議員を辞職します。昭和2年は金融恐慌(バブル崩壊)が始まった年でもありました。株価や地価の急速な下落(約10分の1)がおき、その結果、頼寧は膨大な資産を失ってしまったのです。この頃から頼寧は社会事業から手を引き、政治の世界に専念します。昭和4年に貴族院議員となり、昭和12年には近衛内閣の農林大臣となりました。昭和15年には(戦後は評判の悪い)大政翼賛会の初代事務局長となります。この行動を大正時代の(社会主義的な)頼寧と矛盾すると考える人がいるかもしれません。しかし両者は矛盾しません。2・26事件の青年将校達が疲弊する農民や貧者への過剰な思い入れを持って行動したのと同様、頼寧は(主観的には)弱者が苦しむ社会の矛盾を市場統制と議会政治の解消により解決しようとしたのだと思われます。財閥とこれに結託する政治勢力を敵視する面において社会主義者と軍国主義者には共通性があったのです。
  戦後、頼寧はA級戦犯の容疑をかけられ巣鴨プリズンに勾留されます。訴追は免れましたが、頼寧は以後政治から完全に身を引きました。頼寧は勾留されているときに次のように詠みました(前掲「先人の面影」458頁)。

過ぎし日は 赤と言われて非難され 今日は軍国主義といわれる

 頼寧は昭和30年に(農林大臣としての経歴を買われて)日本中央競馬会の第2代理事長となります。頼寧は中央競馬の運営を改革し、国庫納付金の免除を獲得して競馬場の施設改善に向け、子どもの遊び場を設けるなどして、印象が暗かった競馬のイメージ向上に努めました。また競馬の実況中継を強化するなど競馬の大衆化のために尽力しました。更に頼寧は競馬人気を盛り上げるため、プロ野球のオールスター戦をまねて大衆の人気投票を取り入れた「中山グランプリ」を昭和31年に創設しました。現在まで行われている有馬記念(GⅠ)は、第1回「中山グランプリ」直後、これを発案した頼寧が急死したため、その名を冠して現在まで行われているのです。      
 有馬頼寧のお墓は渋谷区広尾の祥雲寺にあります。墓地一番奥の一角です。

* FBで福岡市の郷土史家益田敬一郎さんから以下の情報を提供されました。
 有馬氏は当時の職業野球(プロ野球)である「東京セネタース」のオーナーでもありました。セネタースから球団名が巡り、有馬氏からの熱心な説得で球団を譲り受けて昭和18年に誕生したのが「西鉄軍」です。西鉄は戦後「九州・福岡の人々を喜ばせたい」とふたたびプロ野球の経営に参画し「西鉄ライオンズ」が生まれます。西鉄ライオンズ全盛期を率いた三原脩監督を巨人から連れてきたのも久留米商出身の川崎徳次(三原の後を継ぎ監督)、平和台球場での日本選手権をはじめ、優勝パレードを盛り上げたのはブリヂストン楽団の演奏する「ブリヂストンマーチ」でした。球団は西鉄から太平洋・クラウンを経て西武ライオンズとなりますが、先年の西武鉄道100周年時のライオンズクラシックで取り上げられたとおり、セネタースは西武鉄道が有馬氏を支えて誕生した球団ですので、まさに輪廻転生の物語です。西武球団は現在も有馬家(東京水天宮宮司家)と懇意です。
* 山本一生「恋と伯爵と大正デモクラシー・有馬頼寧日記1919」(日本経済新聞)を読了。1919は大正8年。スペインパンデミックの最中だ。その最中に頼寧は若い女性に恋をして横浜まで頻繁に出向き国外に逃避行しようとさえしていた。ハンセン病の友人もかかわっていた(後に「日本のマザー・テレサ」とも評された井深八重)。もっとも頼寧の行動は内偵され有馬家幹部に筒抜けになっており、逃避行の企ては頓挫する。他方で頼寧は伯爵の嫡子としては考えられない奔放な活動を行う。エネルギッシュな生涯に感銘を受ける。こういった社会活動をした人物(渋沢栄一など)は「聖人君子」として描かれがちであるが、彼らも欲望にまみれた俗人なのだ。ただ、その欲望の表し方が一般人と少し違っているだけなのである。

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