歴史散歩 Vol.55

古代の筑後3

上津土塁と言って何のことか判る人は久留米市民でも少数です。以下、久留米市文化財調査報告書第48集「上津土塁跡」(1986)と「歴史散歩№1水縄断層」を基礎に御紹介します。(本稿の図面・写真は久留米市埋蔵文化財センターから提供頂いたもの)

上津土塁跡は国道3号線で八女方面から久留米市街に向かう際、浦山丘陵(成田山の観音像がある)と本山丘陵(自衛隊演習場がある)の間を通り抜けて平野部に出るところにあります。ここは浦山丘陵と本山丘陵の間の最も狭くなっているところです。中央左に上津荒木川が流れています。古くから交通の要衝だったところです。 
 浦山丘陵が国道3号線と接する部分から左斜め後方に入ると狭い市道があります。鰻屋の前を通り過ぎると公園(蓮の池公園)があり、南に光明寺と納骨堂があります。この辺りは戦後まで大部分が墓地として利用され古老から「古墓」と呼ばれていました。付近の宅地化に伴い古い墓地は改葬され、この辺の土手状の高まりはその際に削平されました。現在、土塁の痕跡を感じられるのは納骨堂前の土手だけです。昭和59年12月、久留米市教育委員会の手によって蓮の池公園を中心とする数カ所においてトレンチ調査が行われた結果、この土塁は版築工法により築かれた古代の人口盛土であったことが裏付けられました。(調査報告書48集より引用)
 
 版築工法は古代構築物で見受けられる朝鮮半島由来の工法。木杭をたて板を並べて枠を作り、ここに性質の違う土を交互に付き固めていく当時の最新鋭土木技術です。古代山城にも版築工法の技術が用いられています。百済から亡命してきた技術者がもたらしたと考えられています(太宰府の水城も版築工法で築かれています)。報告書によると構築当時の上津土塁の幅は約20メートル、高さ5メートル以上、長さは約450メートルと推定されています。交通要衝に据えられた古代における最先端の国土防衛施設だったのです。太宰府の水城には外側(博多湾側)に水をためる堤があったと日本書紀は記しています。上津土塁にも外側(有明海側)に溜め池があったと古老が記憶しているそうです。土塁北端の浦山丘陵部との接合部には大きな石があり、外側溜め池の水門として使われていました。上津土塁も「水城」だったのです。
 上津土塁の地政学的意義を考えてみましょう。ヤマト政権は白村江後の防衛体制として、律令国家の西の拠点たる太宰府の北(大野城)と南(基い城)に山城を築きました。平野を遮断する堀付の土塁(水城)も大規模に構築されました。「山城」と「土塁」に守られた行政機関の存在が重要な地方官衞の証だったのです。同様の構造が久留米にも認められます。合川で発掘が続けられている筑後国国府跡には軍事的色彩の強い地方官衞(「前身官衞」という)が存在したことが確認されています。古代の久留米には国家機関が早い段階(律令体制確立以前)で構築されているのです。高良山城がこの官衞を守り、更に南(有明海方面)からの侵入者から守るために構築されたのが上津土塁です(古賀幸雄監修「図説久留米小郡うきはの歴史」郷土出版社54頁(神保公久))。前身官衞や高良山城に「磐井の乱」に表象される内乱への対策という意義もあったとするならば上津土塁にも同様の意義(磐井一族の進行をここで食い止めること)が認められるものと考えられます。
 ヤマト政権が死守しようとした筑紫国の本体部分は、北を「水城と大野城・基い城」とし、南を「上津土塁と高良山城」とし、東を「朝倉宮と杷木城」とする3角形の部分であったと考えられます。北か南の一方が破られそうになったら、東の朝倉宮から日田方面に向けて退却し、豊後から瀬戸内海を通ってヤマトへ抜ける退却ルートが想定されていたようです。
上津土塁の昭和59年調査においては重要な知見が得られています。それは土塁が一度崩落し後に修復された形跡が見受けられることです。報告書は原因を土台の軟弱さに求めていますが、その背景にあったのは筑紫大地震です。筑紫大地震は天武7(679)年の条に見られるもので、幅6メートル長さ9キロメートルにわたり地面に亀裂が走ったとの記載があります。我が国の地震記録上最古です(寒川旭「地震の日本史」中公新書31頁)。この地震は高良山北を走る水縄断層が引き起こしたもの。推定されるマグニチュードは7・2だそうです(前褐「久留米・小郡・うきはの歴史」郷土出版社56頁(白木守)。液状化現象の跡が上津土塁や前身官衞に残されています。

 前回の歴史散歩において、私は高良山の神籠石北側部分が崩落していることを記していますが、これも筑紫大地震によるものと考えられています。山川町の山川前田遺跡には地震により生じたと考えられる巨大な地割れ跡が確認されています。 

 筑後地方は比較的地震が少なく地盤が安定した地域と目されていますが、それはこの筑紫大地震により活断層がエネルギーを放出したからだと考えられます。地震を引き起こす地下エネルギーが時間の経過により蓄積されるものであるならば大地震から1300年以上経過した現代において水縄断層が再び活動しないという保証はありません。日本の何処も巨大地震は決して他人事でないのです。
 3回にわたって古代の筑後を散歩しました。中央と地方の対抗関係・対外的危機による中央集権化・防衛体制と大地震の影響など興味深い論点が浮かび上がります。古代の人々はこれらを現在のものとして生き抜いてこられました。今回取り上げました古墳・山城・土塁という古い題材も未来への貴重な羅針盤になりますね。

(後記)
 筑紫大地震は我が国の地震記録上最古のものです。筑紫大地震による人心の乱れこそが天武期の政治革新を下支えしたと解釈することが可能です。日本史上、大地震は巨大な政治変動を引き起こしています(幕末の安政地震・大正末期の関東大震災・現代の阪神淡路大震災と東日本大震災がその後のナショナリズムの引き金になっている)。「日本書紀」が我が国最初のナショナリズムを象徴して形成されたものだとすれば筑紫大地震はその背景にある重要な自然現象です。それは大地震を契機として勃興している現代ナショナリズムを考えるための重要な思考材料です。
*「調査報告書48集」にある「延喜式時代の駅路」とは古代官道のこと。律令体制を目指した古代日本は中央と地方を一直線に結ぶ広い道路網を構築しました。直線性が貫かれたこの道路は平安時代以降の緊張緩和のなかで使用されなくなります。古代史の謎の1つです。筑後の官道は小郡市の福岡佐賀県境区間を一直線に下り宮の陣から筑後川を渡ってスポーツセンター脇を抜け、諏訪野町・西町・南町と久留米中心市街を斜めに貫通し、野伏間から坂上・高良台・相川へと繋がっていました。平成29年5月7日、久留米市文化財保護課の小澤さんの御案内でこの古代官道を歩く企画に参加。律令国家に対する見方を再考させられる貴重な機会でした。興味がある方は近江俊秀「古代道路の謎・奈良時代の巨大国家プロジェクト」(祥伝社新書)を御参照ください。

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