中世高良山の終焉
筑後平野に突き出す形でそびえる高良山。昔も今も久留米を象徴する山です。古代から高良玉垂の神が鎮座する聖なる山であり、有力者が覇権を競う要地でもありました。今回は高良山の中世から近世への移行を歩きます。(参考文献「久留米市史:第1・第2・第3・第6・第7巻」、「久留米・小郡・うきはの歴史」(郷土出版社)、倉冨了一「高良山物語」菊竹金文堂、九州山岳霊場遺跡研究会編「高良山と筑後の山岳霊場遺跡・資料集」高良大社の公式ウェブサイトなど)
* 本稿の作成に当たっては久留米市文化財保護課の小澤太郎様から丁寧な御教示を頂きました。
* 久留米郷土研究会の樋口一成会長から多大なる御教示をいただきました。貴重なお時間を割いていただき感謝に堪えません。改訂稿は「共著」と言っても良いくらいです。
* 2024年2月21日、久留米水曜会で九州歴史資料館の学芸員:國生知子先生の講義を拝聴し感銘を受けました。備忘録を作成し末尾に張り付けました。
古代より筑後地域において高良山は戦略的にも宗教的にも重要な山でした。この山を取り囲む神籠石の性格について明治から続く論争:霊域説(霊地として神聖に保たれた地と解する説)と城郭説(古代山城と解する説)の対立がありました。論争は昭和38年に行われた佐賀県おつぼ山神籠石や山口県石城山神籠石の発掘調査によって古代山城であることがほぼ確定しました。しかしながら、そのことで高良山の宗教的意義が無くなったわけでは全くありません。
高良玉垂の神が人々に何時・どのようにして・認識されるようになったのか判りませんが、高良玉垂宮縁起(鎌倉後期以前に成立)によれば「仁徳55(367)年頃、高良玉垂命が高良山に御鎮座された」とされています。従前の高良山の地主神「高樹の神」は居所を変更します。実社会における権力者の変更が想像されます。この「高樹の神」を祀る高樹神社(旧称:高牟礼権現)は現在も御手洗橋の先の上方に鎮座しています。高樹の神は、高皇産霊神で天地の生成をつかさどる神であり、高良玉垂命が鎮座する本宮山への参詣道の入口を抑える場所にあります。俗世と神域を隔する御手洗池を渡ると真正面に高樹神社が聳えており「関所」ともいうべき様相を見せています。
日本書紀によれば、継体22(528)年、ヤマト政権は筑紫国造・磐井を反乱者とみなして物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、高良山の麓・御井郡で破ったとされます。大化元年(645)「大化改新」による中央集権化で外交・国防・国内制度改革が行われます。持統天皇4年(690・筑後国の初見)同9年(695)に「筑紫国」が筑前と筑後に分国し筑後国府が現在の合川町に設置されます。筑後国府は律令体制が衰退していく中で室町時代まで命脈を保ちます。3度の変遷がありました(変遷する中で国府が徐々に高良山に近づいてくるところが興味深い)。
髙隆寺縁起によれば「壬申の乱」により天武天皇が即位した後(天武2年・673年頃)仏教が高良山に入り、高良神は「仏教に帰依する」と託宣を下しました。室町時代の高良山を描いた「絹本著色高良大社縁起」が高良大社の宝物として存在します(福岡県指定有形文化財)。この縁起図には山内縁起と御祭神縁起があり、その中の「説話図」において当時の高良山の規範的な意義が語られています(「絵解き」)。「高良大社宝物館」でレプリカを拝見できますので興味がある方は是非ご覧ください(内部撮影は不可)。この図は仲哀天皇が「熊襲平定」のために筑紫に向かう場面から始まります。天皇の死後、皇后である神功皇后は(高良神をはじめとする)多くの神々の助けを得ながら「三韓出兵」を成功させるというコンセプトです。「神功皇后は筑紫において応神天皇を生む・高良神は応神仁徳2代の後見人役として働いた・そのため高良山に宿所を得る」という物語(縁起)になっています。ちなみに市内の大善寺玉垂宮も同じ縁起のもとに創建されました。そのため大善寺の山号は「御船山」とされます(神功皇后の船が三韓出兵の後この地に着いたという伝承による)。豊前国において応神天皇を祀っているのが宇佐宮です。宇佐の神は仏教と習合し「八幡大菩薩」(神仏習合の原初形態)として全国的崇敬を集めました(特に奈良の手向山・京の石清水・鎌倉の鶴ヶ岡・博多の箱崎などへの勧請が著名)。高良山信仰もこの神話で民衆の心を捉えていました。石清水八幡宮の麓には今も高良社(地元では河原社という)が祀られています(「徒然草・第五十二段」)。
高良縁起によれば神宮寺高隆寺の創建は白鳳2年(673)と伝わり、弘仁元年(810)高祖隆慶上人が講堂を改築したとの記録が見られます。高隆寺の跡は茶屋「望郷亭」脇から下り坂を歩いて直ぐの弥勒寺跡下方にあり説明の掲示板が設置されています
中世前期において比叡山を拠点とする天台宗においては「座主」なる特殊な地位が設けられます。天台座主は現世権力と宗教的権威を併せ持つ存在でした。座主は天台宗末寺を総監する権限を持ち、実社会に対して強大な権威を有していました。そのことは強い力を誇った白河法皇が「自分の意のままにならぬ存在」として「山法師」(比叡山)を挙げていたことからも明らかです。当時の比叡山は北は関東から九州鹿児島まで43国80数か所に6万石の寺領を持つ大勢力で武力として多数の僧兵を擁していました。高良山における座主呼称は「筑後将士軍談」(高良山座主系図)によれば天暦3(949)年からです(それ以前は「別当」と称していました)。長い間、高良山座主は筑後地域で強い力を誇示してきました。この歴代座主の墓所に初代隆慶上人から五十八世亮純までの霊が眠っています。旧宮司邸(御井寺跡)の前の参道を自動車道に出て少し下ると右脇に「妙音寺跡」の碑があります。そこから山の中に少し入ると墓所の案内板が見えてきます。
歴代座主の墓の上方一段高いところに初代座主・隆慶上人の墓があります。
中世の高良山において中心となったのが「旧宮司邸」と呼ばれている蓮台院御井寺。参道を登って突き当たり周囲が城壁のような石垣に囲まれているところです。
現在も巨大な山門が残されており高良山参拝者に親しまれています。石段を登って山門をくぐると広いスペースがあることが判ります。この地は中世の長い間、筑後地方の広域に影響力を有した権力者である「高良山座主」の居所であったのです。
高良山は神仏習合の典型的霊地として強い権威を振るってきました。高良山は広大な所領を有し、山中に多くの寺院や坊舎が建立され「26ヶ寺・360坊」とも言われる大勢力となっていました。現在、社務所になっている本殿北側には「本地堂」があり、高良の神の本地仏とされる十一面観音(高良神)釈迦如来(八幡神)阿弥陀如来(住吉神)が祀られていました(これら諸仏は現在福聚寺の「本地堂」に移されています・秘仏)。現在、参道脇の平坦になっているところは昔ほぼ全てが寺院や坊舎の跡だったと考えて良いでしょう。南北朝時代には征西将軍宮懐良親王や菊池武光が毘沙門岳城(現つつじ公園)に征西府を置きました。武将らは高良山座主に高い敬意を払っており、座主を「実力で排除しよう」などと考える者は出現しませんでした。
以上が中世高良山の全体的構図です。これらをふまえ「毛利秀包による高良山攻撃」の事実と意味について考えます。戦国末期(天正10年頃)において九州は島津(薩摩)大友(豊後)龍造寺(肥前)3すくみの形勢になっていました(俗にいう「九州三国史」)。当時の筑後諸将に大きな影響を与え、かつ九州の覇権争いに影響を与えた事件として「高城・耳川の合戦」があります。日向伊藤義祐の復権をめぐって、大友宗麟と島津家久の間で繰り広げられた(天正6年11月11から12日の)高城・耳川の合戦における大友方の大敗により島津義久は大友領内に進撃します。龍造寺は「大友大敗」の報に接すると11月9日には筑後に侵入。高良山麟圭の参陣を得て諸将と好を通じました。翌天正7年1月20に高良山に在陣し麟圭の座主職を安堵。参戦した星野・蒲池・問注所・大祝など大友を離反するものが続出します。蒲池・豊饒・草野・堤・西牟田・秋月・筑紫・酒見・城島の諸氏は離脱し龍造寺あるいは島津に与しました。他方で御原・高良山大祝・座主良寛・大宮司宗崎・辺原・蒲池・吉岡・壇・木室・隈・一条・甘木・稲員が大友方に留まるなど(家勤記得集)筑後の諸将は各々の盟主に生き残りをかけました(『家勤記得集』久留米郷土研究会・昭和50年)。
高城・耳川合戦から1年後、龍造寺隆信が水田から高良山に陣を移すと高良社大祝が服従の起請文を送り、天正9年8月、座主良寛も起請文を送ります。隆信は戦略的要地高良山を支配下におき筑後攻略の橋頭保を確保しました。天正11年、大友の武将:戸次道雪と高橋紹運らが筑後に入り久留米城や城島城を攻めるなど失地回復のため攻勢を強めていた中、座主良寛は再び大友方に戻り、翌12年には高良社の知行分を宗麟の妻方奈多氏に上申するなど大友の攻勢が功を奏していました。
天正12年3月24日、島津義久に味方した島原の有馬晴信を討つために出陣した竜造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津に討ち取られます。龍造寺は嫡男である政家が跡を継ぎ10月には龍造寺と島津が和睦。隆信敗死の報を受けた大友武将戸次道雪・高橋紹運は筑後回復に進攻し、高良山に本陣を移し(北肥戦記)12月に草野方の善導寺祖吟上人初め所化上座12名役僧3名を放光寺亭に誘い出して誘殺し善導寺を焼討ちしました。天正13年1月、戸次道雪と高橋紹運は草野発心城の攻略を開始、この救援に出兵した龍造寺政家軍は久留米城・祇園原(久留米祇園社)を中心に布陣します。竜造寺軍は高良山の大友軍と筒川を挟んで衝突し大友軍が勝利しました。これが「祇園原・筒川の合戦」と呼ばれます。同9月に島津勢は三池氏らと語らって筑後に入り、久留米城主元座主麟圭・星野鎮胤、草野家清らが島津に参加。龍造寺方であった筑後諸将は島津方に傾き、島津北上に伴い秋月氏や草野氏のように先方を務めるようになりました(上井覚兼日記)。
久留米中央公園南側に湿地帯の説明図が挙げられていますので貼り付けます。この湿地帯はさらに南側の石橋文化センター・久留米市場なども含む広大なものでした。
筒川は石橋文化ホールと石橋文化センター・久留米市美術館を挟む駐車場(白枠線)の下を流れています(暗渠)。この周辺は筒川の遊水地だったのです。
久留米市場の南側にも筒川が地表から確認できるところがあります。架かっている橋に銘板があります。市場は筒川を跨いで作られていることが判ります。
湯の坂(久留米温泉向い)にある了徳寺(浄土真宗)には「戦いの中で麟圭が門扉を持って敵側の矢を防いだ」との伝承がある「戸剥門(矢受門)」が残されています。
かような状況下で天正15(1587)年4月、大友の支援要請を受けた豊臣秀吉が島津を降伏させるため大軍を率いて九州に乗り込みます。このとき秀吉は高良山吉見岳に陣を張っています。この地は筑前・筑後・肥前を一望できる要所で「国見」をするのに絶好です。
この吉見岳における謁見の際、現れた座主良寛・大宮司孝直・大祝安実が密かに内甲を着していたため秀吉は謁見をせず所領を没収したとされています(『家勤記得集』稲員安則・元禄9年)。秀吉は良寛の弟・麟圭を高良山座主とします。同年6月、島津が降伏した後、秀吉は筑前箱崎に帰着するや九州の諸大名の配置を決定します(九州国割)。この結果、久留米城は(小早川隆景の養子となった)毛利秀包に与えられました。これは朝鮮半島への出兵を狙う秀吉が博多を兵站基地と想定し、その後背地である筑前筑後をその足場と考えていたため、最も信頼を寄せる毛利一族によって統治させるべきだと考えていたことにもとづくものです(天正16年1月5日付秀吉の小早川隆景宛書状には「九州さえ堅固に支配しておれば唐国まで思うとおりに出来る」とあります)。同年7月、21歳の秀包は久留米城に入り統治を始めます。宣教師ルイス・フロイスから洗礼を受けキリシタンとなっていた秀包は、大友宗麟の娘・引地と、秀吉の媒介により婚姻しています。
かように新しく久留米に入城してきた新領主・秀包の最初の課題は従前その地域を治めていた「在地権力」を排除することでした。中世において筑後には大勢力が生まれず、大友・龍造寺・島津という三大勢力の狭間で中小の国人国衆が割拠していました(2014年8月11日「蒲池の姫君」参照)。秀包が統治することになった久留米には①鎌倉時代以来の歴史と筑後在国司の家格を誇る草野家清と②高良玉垂宮の権威を背景に権力を振るう座主がいました。秀包が円滑に統治を進めるためには①②を排除することが不可欠でした。①について、草野家清は前述の吉見岳謁見の際に出頭しなかったため秀吉の意を受けた蜂須賀家政によって肥後南関で殺害されました(中世草野氏の滅亡)。そして②が本稿の課題となる高良山座主の処遇です。もともと久留米城は(良寛弟)鱗圭の居城でした。兄・良寛が大友支配下にあったのに対し弟・鱗圭は龍造寺の庇護下にありました。この時点から久留米城主と高良山座主との間には緊張関係が生じていたのです。座主が麟圭になり久留米城主が秀包になっても「久留米城主vs高良山座主」の構図に変化はありません。両者の中間にある筒川周辺の湿地帯は依然として天然の要害となっていました。しかも座主麟圭は剛勇を誇り、1000名もの兵力を有していたので新城主・秀包も容易に高良山を落とすことが出来なかったのです。
単純な軍事力によっては強大な高良山勢力を屈服させることが出来なかったので、秀包は一計を案じ謀略による麟圭殺害を図ります。謀略は2段階にわたります。まず麟圭の妻の妹(八女の黒木家の次女、黒木家滅亡後に麟圭に引き取られていた)を家臣林次郎兵衛に娶らせて高良山側を油断させます。このため麟圭とその子らは気安く久留米城に入るようになっていたのです。その上で天正19年(1591)5月13日、秀包は麟圭に対して「友好の宴を催す」という名目で麟圭を城に呼びます。そして大量の酒食により酩酊させた麟圭を城東(柳原)において殺害するのです。引き連れていた家臣8名も追われる中で殺害されました(この手口は秀吉の指示と私は推察しています)。
現在の西鉄久留米駅の直ぐ前にニッセイビルがあります。ビルの裏の路地に久留米市文化財保護課による「八ツ墓」の説明版が設置されています。上記8名を祀ったものとされます。当時この地は、久留米城と高良山の中間地点にある、寂しい場所であったようです。
なお、八ツ墓そのものは供養のために寺町の医王寺に移設されています。
以上が「毛利秀包による高良山攻撃」の経過です。
この事件の後、秀包は麟圭の末子「秀虎丸」(当時11歳)を招き高良山座主としました。かつての権力者「高良山座主」が子供になり、政治権力である久留米城主に屈服したのです。秀包はかような状態の高良山に対して1000石の領地寄進を改めて行いました。高良山は以前の「自分の力で支配していた」中世的権力では全くなくなりました。在地領主など中間搾取者を無くし新大名を通じて生産者である農民を直接支配するという「秀吉の政治原則」に忠実に従うものになったのです。「信長による比叡山攻撃」と並行的に考えれば毛利秀包の高良山攻撃は「宗教に名を借りた中世的権威を否定すること」が本質だったと思われます。それは分権的な中世的宗教権力が中央集権化を志向する近世的政治権力により否定された出来事とみることが出来ます。
江戸時代以降、仏教は幕府による民衆支配の道具に堕します。そのため神職(特に平田派)に宗教の在り方に対する不満が高まりました。江戸時代末期の「尊王攘夷」運動は根底に仏教への不満を孕むものとなり「維新」が実現すると「廃仏毀釈」と呼ばれる現象が出現します。明治維新なる政治現象は宗教戦争の側面を伴っていたのです。明治新政府の神祇官が明治元年3月17日「神仏分離」を命じ、次いで3月28日「神仏判然令」が布告されると一部神職や民衆が過激化し積極的な仏教破壊活動に及びました。(ただし、かような活動の過激化に畏れをなした明治政府は「神仏分離は廃仏毀釈でない」と力説し過激な行動には警告を発して軌道修正を図りました)。
弥勒寺跡に残された石仏には首を切られ後で修復されたものが存在します。
高良山から仏教的要素は排除されました。かようにして今の高良山の姿があります。名称は明治4年に高良玉垂神社となりました(「高良大社」となったのは昭和22年のこと)。存在した多くの仏教施設は破却され宝物は麓の「御井寺」「福聚寺」「国分寺」(宮の陣)などに移されました。この「御井寺」はかつて座主が君臨した蓮台院とは異なり「廃仏毀釈」が過ぎ去った後、明治11年に麓の参道脇(宝蔵寺跡)に再興されたものです。以上の歴史をふまえ高良山に登り所縁の場所を観れば昔の痕跡が残っていることが判ると思います。今回の歴史散歩を読んで興味を覚えられた方は、別の目で高良山に登り、街中の所縁の場所を歩いてみてください。 (終)
* 久留米城と高良山を繋ぐ古道は国道三号線を斜めに横切って、覚蓮寺前の坂を下り、市場の南側を通り、湯の坂(了徳寺の前)を上がるルートでした。 下図左側の赤丸が覚連寺・右側の赤丸が了徳寺、中央の青で塗ったラインが筒川です。南北の広大な湿地帯が筒川の遊水地でした。
(*昭和3年久留米市地図・着色は樋口によるもの)
古い時代において「坂」が必ずしも物理的な傾斜地を指すものではなく、何かと何かとの「境」を意味する場所のことであったとするならば(2018年1月2日「鳥辺野歴史散歩」)筒川を挟んで対峙する2つの坂には強い規範的意味が付与されていたと想像されます。地形を意識して考察すると「久留米城VS高良山」の対立において覚連寺と了徳寺の場所は「寺」というより「出城(出丸)」のような位置づけだったのではないか?だからこそ了徳寺には「戸剥門(矢受門)」という戦闘的な名称の伝承が残されているのではないか?そうだとすると対峙する覚連寺にも強い規範的意味が付与されていたとみるのが自然。覚連寺の直ぐ北に旧西野中村の共同墓地(島山墓地)があります(カトリック久留米教会の墓地も存在する)。 この周辺は江戸のデイープノース・大阪のデイープサウス・京の四条河原と同様の意義を有していたのではないか?了徳寺前にある「久留米温泉」では現在でも旅芸人さんの演芸大会がよく開かれています。本人たちは全く意識していないと思われますが、上記「土地の記憶」が今もなお受け継がれているという見立てもできると私は考えます。
* 伊藤正敏「寺社勢力の中世」ちくま新書は、中世において現世権力(朝廷公家や武家)の他に無縁所を司る寺社勢力が強い力を有していたことをコンパクトにまとめる良書。お勧めです。
* 2024年2月21日、久留米水曜会にて九州歴史資料館の学芸員:國生知子先生の講義を拝聴しました。筑後の仏教美術に造詣の深い専門家のお話に非常に感銘を受けました。
以下、自分が理解した範囲での備忘録。
① 天武2年、高良神が仏教に帰依する託宣を下したという逸話について、同様の伝承が全国に存在している。説話パターンからして奈良時代後期に流布されたものと考えられる。
② 高良山には八世紀(奈良時代後期)の瓦葺き建物の遺構が発見されている。当時の瓦葺き建物は役所か寺に限られるので寺が存在していたものと推測される。嘉暦2年(1327)高隆寺において塔供養の評定が行われたとの記録あり(太宰管内志)。以降記録に高隆寺は現れないので南北朝期に軍事拠点となり荒廃したものと考えられる。16世紀初頭、座主院が蓮台院御井寺であることが確認される(高良大社文書)。戦国期に再び軍事拠点となり荒廃したと考えられる。
③ 慶応4年(1968)神仏判然令が出される。明治2年(1869)藩知事が高良山本坊(蓮台院御井寺)に移る。59世座主亮俊に還俗退去命令が出される。57世座主亮恩が正福寺に移される。明静院霊徹が国分寺に移される。明治3年正福寺を御井寺に改称することが許可される。明静院本堂が解体される(安武八幡宮に移築)。明治4年(1871)高良玉垂宮が高良神社と改称される。国幣中社になる。明治11年、御井寺が復興される。大正4年(1915)、高良神社が国幣大社になる。昭和22年(1947)社格廃止により「高良大社」と改称される。
④ 現在の国分寺(宮の陣)は国分町から移転された。本尊は観音菩薩。毎年1月3日に元三大師の祭りがある。この元三大師は良源である。平安時代中期に天台宗で活躍した僧侶で、正月3日に没したことから元三大師と称された。強い呪力を持つ僧侶として信仰を集めた。角大師・鬼大師・豆大師などの異形の姿でも造形化された。元三大師の姿を刷った護符は厄除け・疾病除けとして庶民に人気があった。この木造元三大師像が明静院の本尊。これが国分寺に移されている(秘仏)。木造鬼大師像もある。これは東叡山寛永寺から高良山明静院に模刻されたもの。江戸時代初期において天台宗のトップであった天海は東叡山寛永寺・日光山輪王寺・比叡山延暦寺を支配。高良山座主は、慶安2年以降、東叡山寛永寺が任命した。当時の朱印高は座主770石・明静院100石・大社15石・大宮司15石。明静院は近世を通じ「元三大師の一大霊場」であったと考えられる。
⑤ 福聚寺は明治2年(1869)社院局から高良山本地仏勝軍地蔵を受け入れた。明治4年、本山から不動明王像と薬師如来像を受け入れた。明治12年(1879)本地堂建設を発願し、明治16年に御入仏の大法要を催す。明治20年には本地堂月参講社員が2000名を超えた。
⑥ 国分寺は明治2年、霊徹が明静院から移ったのに伴い、多数の仏像・仏画・経典類を受け入れた。明治4年には比叡山の直轄末寺となる。明治16年、高良山の谷底で石像仁王像が発見される。これを受け入れ正門に安置。高良山の仏教文化を伝える貴重な遺構である。