歴史散歩 Vol.104

マリアの聖堂

聖マリア病院は筑後地区を代表する大病院です。入口右側に古い聖堂があります。「雪の聖母聖堂」と呼ばれているこの建物は昭和60年に西鉄グランドホテル(旧西鉄本社・松本健次郎別邸)前の大名カトリック教会から移築されました。聖マリア病院「雪の聖母聖堂建築概要」井手道雄「西海の天主堂路」新風舎、柳猛直「ふくおか歴史散歩6」等を基礎に御紹介します。

 この聖堂が福岡市大名町に造られたのは明治29年です。煉瓦造りの教会堂として全国で5番目に古いものです。これより古いものは大浦天主堂(元治元年)・出津教会堂(明治15年)・聖ザビエル天主堂(明治23年)・井持浦教会堂(明治28年)の4つしかありません。福岡におけるカトリックの宣教は、明治20年、パリ外国宣教会のエミール・ラゲ神父により開始されます。当初は教会堂が無かったので民家を借りて始められました。ラゲ神父は3年間で36名に洗礼を授けます。神父は聖書の翻訳や仏和大事典の編纂も行い、福岡におけるフランス語教育にも大変な貢献をしました。ラゲ神父後任として赴任したのがルッセル神父です。明治22年に着任したルッセル神父は教会堂建築のため大名町の現在地(西半分)を購入します。次いで同25年に着任したベレール神父は布教のため「人目を引く美しい聖堂の建設を」と呼びかけを行い、多くの信者(海外を含む)から多額の寄付が募られました。ベレール神父は寄せられた寄付金をもとに聖堂建築に取りかかります。当時、福岡には洋風建築が無かったのでベレール神父は自ら設計を行い大工・井上弥六氏に赤煉瓦を焼くことから指導しました。建築は尺を単位として行われ、柱と柱の間が9尺・中央の広い柱の間が18尺です。これは脇間の2倍を中央間とするヨーロッパのゴシック建築と同じ方法です。明治29年に天主堂は完成し「勝利の聖母聖堂」と呼ばれました。神父は明治31年に天主堂の東側の隣地も購入して現在の教会敷地が整備されました。しかしながら、この場所は江戸時代から「萬町の曲がり角」と呼ばれた角地(敵の侵入を防ぎやすくするため意図的に作った遠見遮断の角地)でした。明治末年、福岡市は路面電車を通すため教会敷地を削る形で道路を直線化する計画を発表します。教会は建物の撤去を要求されたのです。(ゼンリン住宅地図から引用・彩色は樋口)

 苦境に陥ったベレール神父は東京大司教館のエヴラール神父を通じ、時の内務大臣(西園寺内閣)原敬に善処を依頼しました。原敬は青年時代にエヴラール神父と一緒に勉強し日本語とフランス語を教えあう仲だったからです(原敬は東京大司教館に下宿し法律学校に通いましたが、その間に洗礼を受け、ダビデ・ハラの洗礼名を与えられています)。内務官僚のボスである原敬からの介入を受けて福岡市は計画を断念。福岡の行政官僚に対する内務大臣の力は絶大でした。このため道路が曲がったまま残り、路面電車の難所となりました。電源のポールがよく外れ、時には脱線もしました。車輪とレールのきしむ音は周辺住民を悩ませました。事情を知る人はこの角を「ベレール神父のS」と呼びましたがベレール神父は「原敬のS」と呼んでいました(柳135頁)。

昭和59年、この教会において新聖堂(カテドラルセンター)建築計画が持ち上がった際、聖堂は取り壊されそうになりました。が、九州大学の土田助教授と聖マリア病院長(当時)井手一郎先生のご努力により聖マリア病院内に移築保存されることになりました(移築費用は聖マリアが負担)。耐震基準の関係で単純な煉瓦組積造は認められていません。作業にあたった戸田建設は煉瓦壁厚の一部を鉄筋コンクリートの壁構造とし、その上に煉瓦を貼り付ける工法を採用したそうです。
 妻面の円形版には「天主堂」「公教会」の文字が刻まれています。中央には円形のバラ窓があり、デザイン上のアクセントとなるとともに内部採光にも効果を発揮しています。聖堂の前には聖母像があり、その右横にはルルドの泉が再現されています。
 「ルルドの泉」が聖マリア病院内に再現されている趣旨を説明します。1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルー(フランスでは「ベルナデット」)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれています。ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」(アケロ)と呼び聖母とは思っていなかったようです。しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始めます。 聖母出現の噂は教会関係者をはじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていました。ベルナデットが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると神父はその女性の名前を聞いて来るように命じます。神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデットに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げました。 これによって当初は懐疑的だったペイラマール神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになります。家が貧しくて学校に通えず、当時の教会用語だったラテン語どころか標準フランス語の読み書きも出来なかった少女が知り得るはずもない言葉だと思われたからです。 以後、聖母がこの少女の前に18回にもわたって姿を現したと評判になりました。1864年に聖母があらわれたという場所に聖母像が建てられます。この話はすぐにヨーロッパ中に広まったため、はじめに建てられていた小さな聖堂はやがて巡礼者でにぎわう大聖堂になりました。「聖母」はベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言いました。近くに水が無かったので彼女は近くの川へ行こうとしましたが「聖母」が「洞窟の岩の下の方へ行くように指差した」ところ、泥水が少し湧いてきており次第にそれは清水になって飲めるようになりました。これがルルドの泉の始まりとされます。この泉には「病を治癒する効果」があると信じられるようになり今では世界中から信者が集まる聖地となっているのです。

この「雪の聖母聖堂」は病院職員の心の拠り所となっています。 

オルガンの音で荘厳なイメージが湧きますね。
 
バラ窓から差し込む光が優しさを感じさせます。  

木製の柱には丁寧な彫刻が刻まれています。

天井は見事なリブ・ヴォールト式です。

キリスト教にとって医療行為は特に重要な意味を持っています。山形孝夫「治癒神イエスの誕生」(ちくま学芸文庫)によれば、聖書に記されている「隠喩としての病気」の意味はヘブライ聖書(旧約聖書)と福音書(新約聖書)で正反対です。ヨブ記やレビ記における病気は不幸(呪い・穢れ)の隠喩ですが、福音書におけるイエスの治療行為はこれらの不当な意味を剥奪しています(むしろ病人こそが神に近いことを暗示しています)。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である・私が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」(マルコ2・17)という逆説的表現は当時の民衆に希望を与え、支配階層に怒りや憎悪を生じさせるに十分なものだったことでしょう。「病人(弱い人)とともにある」という崇高な理念をあげたからこそキリストの教えは世界中に広まったのですね。聖マリア病院も同じ理念の下に営まれています。だからこそ真のキリスト者である井手一郎先生は高額な移築費用を負担してまで、壊されそうになっていたこの古い聖堂に「新しい命を与えたい」と願われたのだと私は感じています。この聖堂は、福岡大名の地からいったん姿を消したものの、御心により久留米で新しい命を得て蘇りました。マリアの聖堂は「現世において苦難を味わった者が生まれ変わって多くの民衆を救う心の拠り所となる」というキリスト教の思想を具現化するものだったのです。患者さんだけでなく古い聖堂の命をも救った名医・井手一郎先生は平成16年1月20日に天に召されました。ご葬儀は同月24日この聖堂で執り行われました。(終)

* 筑後の地域雑誌「あげな・どげな」第12号神山道子「聖マリア病院創設者井手一郎」から井手一郎先生の歴史を概説します。先生は県立明善中学を卒業後熊本の第五高等学校を経て九州帝国大学医学部に入学。放射線治療学教室に入る。昭和16年に太刀洗陸軍飛行学校付きの医師となる。終戦時は東京に居て8月25日立川航空研究所で召集解除。九州大学の放射線治療学教室に戻った一郎を待っていたのは長崎の原爆研究救護員としての派遣指示だった。原爆災害調査は2年半の間に7回行われ、一郎は永井隆博士をしばしば見舞っている。昭和23年九州大学を退職し再建された井手医院に勤務。昭和27年に「医療法人雪の聖母会」を設立した。病院の名を「聖マリア」としたのは、昭和28年大水害で全てを流失された中、井手家に伝わっていたマリア像が鴨居に引っかかって流されず奇跡的に助かったためであるという。

* 筑後(今村)における医療には大航海時代に日本で活躍したアルメイダの影響もあるようです。以下、長崎の医師伊崎祐介様のFBの書き込みから紹介します。アルメイダは1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれました。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡ります。1552年に貿易目的で初来日し、日本とマカオを行き来して多くの富を手にしました。アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に出会います。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けました。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てます。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからのようです。府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科・内科・ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てました。これが日本初の病院であり西洋医学が初めて導入された場所でした。この病院においては自ら外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンに内科医療や薬の知識を教えた他、聖水・十字架・数珠・祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われたようです。この病院で主力だったのは外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力であることを強調する発言を残しています。「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織も発足させています。布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせました。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導き、医師として貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得しました。神父としての活動を始めてからも貿易への投資を続け病院の資金を調達しました。慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進しました。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年に医学教育も開始し医師の養成を行います。アルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっています。同年には横瀬浦から避難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在しています。1563年には口之津へ到着し、島原半島における布教活動もおこなっています。1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階されました。再び日本に戻って宣教活動・医療活動に専念しますが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没しました。大分市医師会立アルメイダ病院(1969年開設・大分県大分市)の名称は彼の名前にちなんでいます。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯でした。

* 誤解が生じないよう補足します。明治以後に輸入された西洋近代医学と大航海時代の「医学」は全く別物です。現代に通じる「医学的なまなざし」が確立されたのは19世紀以降であり、認識論的な断絶があります。興味がある方はミシェル・フーコー「臨床医学の誕生」(みすず書房・神谷美恵子訳解説)を御参照ください。

* 筑後の地域雑誌「あげな・どげな」第12号巻頭論文薬師寺道明「久留米の医学・始まりものがたり」によれば、久留米医学の豊かさは筑後川流域文化圏の歴史的厚みも背景にあるようです(日田の広瀬淡窓・小郡の高松凌雲・肥前の佐野常民・久留米の酒井義篤など)。

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