ポテトキング2
牛島謹爾の評伝小説「花は一色にあらず」(西日本新聞社)の執筆者山田義雄先生は謹爾のアメリカ生活を最初の2年(下積み時代)次の18年(ポテトキングの時代)次の18年(日本人移民指導者の時代)に分類されています。今回は前2者を、次回は後者を記述することとします。本稿の作成にあたり「ポテト王を語る会」(廣津芳信会長)と山田先生の御協力を得ました。写真や図面類は「語る会」から掲載を許諾いいただいたものです。記述の内容は山田先生の著書と講演会(平成20年3月16日)に概ね依拠しています。記して謝意を申し上げます。(*篠原正一「久留米人物誌」久留米市「先人の面影」も参照しました。)
謹爾はアメリカ到着後、サンフランシスコ福音会の世話になり、ハウスボーイや日雇労働などをしながら各地を転々としつつ資金を蓄えます。最初から比較的順調なスタートが切れた背景には日本を離れる前に親友日比翁助から書いてもらった紹介状が役に立ったようです。若干の資金を蓄えた後、謹爾は1891年にカリフォルニア州ニュー・ホープ(New Hope)の農家で3エーカーの農園を借地することが出来るようになり、ここでポテトの栽培に手をつけることになりました。そして更なる飛躍を試みることになるのです。
ストックトン市(Stockton)近郊に、カリフォルニア・デルタと呼ばれる水脈地帯があります。デルタの地形は複雑でアイランド[islands]やトラクト[tracts]が細かく張りめぐらされた水脈によって区分されています。ここは先住した移民達が開拓を試みたものの多くの水やヒルや雑草に悩まされて開拓を放棄した土地(先住民から「魔の湿原」と言われていた土地)でした。逆に言えば従前手が付けられていなかっただけに、開発に成功すれば肥沃な土壌により成功が見込まれる土地でもあったのです。謹爾はこのハイリスク・ハイリターンの土地に着目し10エーカーの農地を買い取って開拓を始めます。以後の開拓は怒濤のようです。94年(ロングフィールド開拓)95年(イートンバックレ開拓)96年(ジャックブラック開拓)97年(タイラーアイランド開拓)98年(ステーテンアイランド開拓)99年(ブラックフォード開拓)04年(ハイロントラクト・ヴィクトリアアイランド開拓)05年(エンパイアアイランド・オールドアイランド開拓)06年(リンジアイランド開拓)10年(キングアイランド・シマトラクト開拓)12年(ホールアイランド・キャナルランチ開拓)14年(マクドナルドアイランド開拓)16年(ベーコンアイランド開拓)17年(マンダベールアイランド開拓)18年(ベニスアイランド・ボーデンアイランド開拓)。(下の地図の赤線で囲んだ部分)総面積は1万8000ヘクタールに及び、人口わずか8千人程度であったストックトンの町はポテトの関連産業により一躍人口10万人の都市となりました。
謹爾はアメリカでの名前をジョージ・シマ(George Shima)としました。Georgeの名前は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンから採ったものですが、私はもう1つの意味を感じます。Georgeとは竜と戦うキリスト教の守護聖人です。謹爾は広大なデルタの水脈を竜になぞらえこれと戦う自分の姿をかの守護聖人に見立てたのではないかと私は感じます。
謹爾の農業者としての成功には要因があります。山田先生は以下の3点に集約しておられます。第1はデルタ地帯の開発に久留米の渡米希望者を大勢呼び寄せて牛島農場に雇い入れたことがあります。兄・覚平もその1人です。何故、謹爾は先住者の誰もが出来なかったデルタの開拓が出来たのか?そはデルタ開拓に筑後の伝統的技術が役立ったからです。筑後川の改修や有明海の干拓で培われた堤防構築技術と水を上手にコントロールする東洋的水田耕作技術が大いに役立ったのです。そして開拓されてしまえば「魔の湿原」は無肥料で通常の3倍の収穫を産む優秀な農場へ変貌していったのです。第2として「バーバンクポテト」の提供があげられます。15年ほど前にルーサー・バーバンク博士により品種改良された種芋ですが、謹爾はこの優秀なポテト種を運良く育てることが出来たのです(博士は後に牛島農場を視察しています)。第3の要因として機械技術者ベンジャミン・ホルトによる農業機械の発明があげられます。彼が発明したキャタピラ付きのトラクタがぬかるみの大湿原を開拓するのに多大の威力を発揮しました。現在、キャタピラ付きのトラクタは世界中で使われていますが、その最初の積極的活用者は謹爾(牛島農園)だったのです(ストックトン近郊のサンオーキン歴史博物館には当時牛島農園で使用されていた農業機械が多数展示されているそうです)。
謹爾の成功の要因には(前述した農業技術者としての側面の他に)企業者・実業家としての側面もあげられます。山田先生は以下の4点に集約します。第1に「品質」の重視。当時ジャガイモは低価格のありふれた商品に過ぎませんでした。謹爾は商品の差別化を図るため「シマ・ファンシー」というブランド名を付けて広告宣伝を大規模に行いました。これによって高品質・高価格という独自の地位を獲得していったのです。第2にブランド戦略。謹爾は「シマ・ファンシー」ブランドを育てるために商品に綺麗な赤いラベルを付けて出荷します。消費者が一目見ただけで牛島農園産のものと判るようにしました。現在でこそありふれた手法ですが、当時としては画期的な販売手法でした。第3に本格的な価格戦略。世界の最新情報を集めて価格の維持に努めました。1898年の米西戦争時の価格高騰では多額の利益を得ています。謹爾は、モノの価格が需要と供給のバランスで決まるという、経済原理を深く理解していたのです。第4に果敢な設備投資。謹爾は開拓初期段階で1度破産しています。しかしこれにもめげず積極的な投資活動を続けるのです。謹爾に融資をしていた銀行(特に多額の融資をしていた横浜正金銀行サンフランシスコ支店)は債権回収に手を焼き、時の時枝支店長と土倉次長は本店(日本)と謹爾との間に立ってさんざんな思いをしたようです。
牛島農場の優秀なじゃがいもは市場で大人気を獲得し、全米ポテト生産高の10%を占めるまでに成長しました。謹爾の農場は拡大し、労働者は3千人を超え、最終的には10万エーカー以上の土地を所有するまでに登りつめました。かかる謹爾の成功を象徴するのが「ポテトキング」という称号だったのです。(当時のシマファンシーポテトの積み出し用 麻袋旧久留米藩主の血筋を引く有馬頼寧(08年2月9日「有馬記念の生みの親」参照)は明治43年にアメリカで謹爾に逢っています。有馬氏にとって謹爾は「世界人」という感じを抱かせる人物であったようです。