歴史散歩 Vol.76

ドイツ兵俘虜収容所2

 「収容所」という言葉は第2次大戦時の人種的偏見の強い強制収容所がイメージされがちですが第1次大戦の戦勝国日本は国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守していました。俘虜は久留米に最先端のドイツの文化を伝え、後世の久留米に良い影響を与えています。
(食生活)
 久留米収容所には陸軍御用達商人が多数出入りしており(「一八会」という親睦会を組織)売上の内容も記録上明らかになっています。これによると、売上の第1位はビールで、2位は煙草です。俘虜はよくビールを飲みました。洋食レストランからの注文も多かったようです。俘虜将校には日本政府から給料が支払われていましたし、下級兵士の飲食費は日本政府が支払っていましたから、久留米の商業には良い景気刺激策となっていました。
 
日吉小学校の近くにある松尾ハムは先代からこの地で手作りハムを製造しています。きっかけは、ドイツ兵が故郷の味としてハムを猛烈に食べたがり、これを聞いた久留米カトリック教会ミシェル・ソーレ神父が(日吉小学校前にあった神父自宅の一角に)隠れキリシタンの末裔であった松尾さんの先代を呼び寄せハム製造を依頼したことによるものだそうです。俘虜たちはこのハムを愛し、解放後に松尾さんに対して記念のレリーフを渡しています。松尾さんはこのレリーフを大切に保存しておられます。(補注)*久留米のカトリック教会は日吉小学校前の駐車場にありました。明治通りにあったのは斯道院(病院)です。斯道院が津福に移転し聖マリア病院になった後、再建されたのが現在のカトリック教会。*松尾ハムは廃業されました。跡は更地になっています。*松尾ハムが上津町浦山公園入口に復活しました!
(散歩・遠足)
 久留米収容所は敷地が狭かったので散歩や買物が行われていました。明治維新から半世紀しか経っていない時代に大量の外国人が久留米に来たので俘虜の外出時は多くの見物人が出ました。俘虜が近郊の観光地に出かけた時の写真が多数残されています。遠足は当初は久留米市内(高良大社・五穀神社等)に限られていましたが後には佐賀や八女方面にまで足を伸ばしていたようです。
(スポーツ)
 収容所内には3つの体操クラブがあり、クリスマスや復活祭には12種競技大会も開かれていました。1917年には大規模なスポーツ週間が開催され記念の絵葉書が発行されてます。翌18年には隣接する野菜畑を整地して運動場が設けられ、収容所内ではスポーツ情報誌すら刊行されるようになりました。同年7月にサッカー・ホッケー・テニスなど13のクラブが活動するに至っています。競技大会の記録も残っており、ヴェーバー選手は100メートルを11秒4で走っています。これは1920年の第7回オリンピックで加賀一郎選手が予選落ちした時と同じタイムです。日本代表選手と同じ運動能力の者が収容所内にいたとは驚きです。
  
(作品展)
 俘虜たちは時間を持て余していました。趣味や特技のある俘虜たちは絵を描いたり彫刻を作ったり工芸品を制作していたりしました。収容所内で作品展が開かれた他、文部省主催の展覧界に出品されることもあったようです。大正7(1918)年に収容所内で開催された「第3回久留米美術工芸品展会」では約5000点の作品が出品され、販売も行われたそうです。
(音楽活動) 
 久留米俘虜収容所には2つの楽団が存在しました。1つはレーマン楽団、もう1つはシンフォニーオーケストラです。前者は小規模編成で主に通俗曲のコンサートを週に1回程度催していました(通算で150回以上)。後者はクラシックを主に演奏するもので大作も演奏されていました。日本では板東収容所におけるベートーヴェンの交響曲第9番の初演がよく知られていますが収容所内における演奏です。一般市民に対して第9交響曲が日本で初めて披露されたのは久留米においてです。時は大正8(1919)年12月3日、場所は久留米高等女学校です(現・石橋迎賓館)。
 当日の演奏目録
 1 モーツアルト     歌劇序曲(フィガロの結婚 ドン・ジョバンニ)
 2 ラフ         カバテイアーナ
 3 ベートーヴェン     交響曲第9番第2楽章
 4 同          交響曲第9番第3楽章
 5 ワーグナー      楽劇ヴァルキューレより「ジークムントの恋の歌」
 6 ベートーヴェン    レオノーレ序曲
 7 ワーグナー      歌劇タンホイザーより「貴族の入場」
 8 メンデルスゾーン   音楽劇「夏の夜の夢」より「結婚行進曲」
 9 ブランケンブルグ   トールガウ行進曲・フリードリッヒ王子の行進曲
 
余談ながら、ベートーヴェンの第1・5・7・8番の各交響曲も初演されたのは久留米です。さらにオーケストラはワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」やブルックナーの「交響曲第7番」も演奏していました。当時の久留米収容所では高度な文化活動が展開されていたのです。
 
(雇用)
 俘虜の中には極めて高度な工業技術を持った者が存在しました。当時のドイツは世界最高水準の科学技術を有していましたから、久留米の企業にとって優秀な技術者を比較的安価な賃金で雇うことが出来たのは幸運なことでした(明治初期のお雇い外国人がおそろしく高い給与を得ていたことを想起してください)。大正7年以降、日本足袋・つちや足袋・日本製粉の3社は計15名の俘虜を雇用しました。俘虜の解放後も日本への残留を希望する者が21名おり、うち12名が企業と雇用契約を結びました。特に日本足袋のヒルシュベルゲル氏、つちや足袋のウェデキンド氏は久留米のゴム産業の発展に極めて大きい役割を果たしました。
 日本足袋は昭和4年に自動車タイヤ製造機械をアメリカの会社に発注し、約20名の従業員をタイヤ工場に配属して試作にあたりました。当時は日本の技術力が低く、先進的な技術導入が不可欠でした。このとき社長石橋正二郎は久留米商業以来の親友石井光次郎からドイツ兵の名簿を(台湾総督府秘書課長という立場から)入手します。そこで知ったのがセルバッハ氏やヒルシュベルゲル氏です(原達郎「オノヨーコの華麗な一族」柳川ふるさと塾195頁)。同氏らの技術をもとに開発されたのが地下足袋で、最初の大口需要者となったのが三池炭鉱でした(「旧三本松町通り」と「三池港周辺1・3」を参照)。地下足袋の大ヒットで蓄積された資金力を基礎にしてタイヤ事業は開始されたのです(石橋家と団家の関連について「石橋迎賓館」参照)。ヒルシュベルゲル氏は技術課長としてゴムの配合を担当します。正二郎は、機械の発注に際してタイヤのブランド名を決める必要が出た際にヒルシュベルゲル氏らと協議します。同氏は最初「石橋」を英語風にもじって「ストーン・ブリッヂ」としてみましたが、語呂が良くないので逆さまに「ブリッヂ・ストン」と読み替えました。こうして昭和6(1931)年に設立されたのが「ブリッヂストンタイヤ株式会社」なのです。
つちや足袋(現在の株式会社ムーンスター)におけるウェデキンド氏の貢献は素晴らしく、昭和28年10月に日華ゴム(当時の社名)創業80周年記念式典の際に永年勤続被表彰者として最初に社長から読み上げられたほどです。ウェデキンド氏は大正3年に久留米に収容され、大正8年につちや足袋に入社し以後33年も同社のために尽くしました。久留米弁丸出しのウェデさんは社員の誰からも愛されました。フクニチ新聞(昭和28年10月25日号)はウェデさんのインタビューを以下のように載せています(久留米市文化財調査報告書195集147頁)。

そうですのう。私が日本に残ったわけはのう、科学者としてのじゃん、良心です。科学にゃじゃん、国境はなかけんのう。
私がとどまった当時は日本人は本当に兄弟のごつ親切にしてくれたばってん、戦後の日本人はどだい冷とうなったごたるのー。昔の日本人はこげな人間ではなかったごたるばってん。
やっぱ政治が悪かとじゃろたい。あたしゃ、こげんかこつが一番寂しかとたい。

ウェデさんはドイツに帰ることなく昭和46年9月に久留米で亡くなりました(享年82歳)。

(文化財収蔵館「ドイツ兵俘虜と久留米」展図録より引用)
              
* 後記・平成26年10月4日から11月30日まで久留米六ツ門図書館にて第1次世界大戦から100年を記念した「ドイツ兵久留米俘虜収容所」展が開催されました。展示内容にもとづいて本文に加筆補正を施しました。本稿の写真(松尾ハムの2枚以外)は上記展示とパンフレットから引用させていただいたものです。
* 平成29年7月8日から9月24日まで久留米六ツ門図書館にて「軍都久留米の風景と暮らし」展が開催されています。最初のビールを飲んでいる俘虜たちの写真はこの展示物からの引用です。久留米市文化財保護課の御好意に感謝します。
* 久留米収容所で4年半を過ごした法律家カール・フォークト氏(1878~1960)により日本で設立された法律特許事務所の関係者が久留米を訪問。フォークト氏は元外交官。1910年、ドイツ人として初めて日本で弁理士資格を取得し事務所を開設。第1次大戦が勃発するとフォークト氏はチンタオで従軍。陥落したので俘虜となる。日本語と日本文化に詳しいことからフォークト氏は収容所側と俘虜側の間の調整役として活躍。解放後も日本にとどまり東京で法律特許事務所を運営した。この事務所は現在も存続している。(平成30年4月29日西日本新聞)
* ウェデキンド氏の箇所で引用した久留米文化財収蔵館「ドイツ兵俘虜と久留米」展1997図録は鳥栖市在住の郷土史家・横尾様から提供いただいたものです。

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