歴史散歩 Vol.91

ちょっと寄り道(長崎)

 遠藤周作「沈黙」刊行から50年。2017年には映画も公開されます。そこで昨年12月に、キリスト教信仰における「強者と弱者」「加害者と被害者」という視点を意識しつつ長崎を散歩してみました。1日目はキリシタン弾圧・2日目は核兵器被害をテーマに据えています。  参考文献  遠藤周作「沈黙」新潮文庫「切支丹の里」中公文庫、「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」新潮社、司馬遼太郎「街道を行くNo.11・17」朝日文庫、森一弘「日本の教会の宣教の光と影」サンパウロ、高山文彦「生き抜け、その日のために」解放出版社、高瀬毅「ナガサキ消えたもう1つの原爆ドーム」平凡社、工藤洋三他「写真が語る原爆投下」など。

 JR長崎本線をゆく「白いかもめ」は浦上駅を過ぎ長崎駅で停車した。明治30年に開業した「長崎駅」とは現浦上駅のことである。8年間、浦上駅が長崎本線の終着駅であった。当時の「長崎駅」は長崎市内ではなく浦上山里村にあった(浦上山里村が長崎市に編入されるのは大正9年のこと)。「長崎駅」に着いた客は徒歩や人力車で市内に向かった。市民の不満が高まったので、長崎市は公債で長崎湾の浚渫を行い、その土砂で山里から出島付近まで海を埋立てる計画を立てた。明治37年に工事は完了した。九州鉄道はここに1・6キロメートルの線路を敷き先端に新しく駅舎をもうけた。これが現在の長崎駅である。
 宿を取った駅前のホテルに荷物を預ける。路面電車に乗って出島で降りる。県庁への坂を登る。昔、この周辺は海であり、付近は海に突き出した岬であった。ここには安土桃山時代(世界史的には大航海時代)にイエズス会本部がもうけられ、江戸時代に奉行所が存在し、幕末には幕府の海軍伝習所が開設された。長崎を「誰が・どのようにして」支配しているのかを象徴する場所である。
 日本初のキリシタン大名は大村純忠。有馬晴信はその甥だ。莫大な利益を得られる南蛮貿易のため純忠は横瀬・福田・長崎を開港し、兄の有馬義直は口之津を開港した。輸入品には武器を含み、輸出品には奴隷を含む(ルシオデソウザ他「大航海時代の日本人奴隷」中央公論新社を参照)。日野江城主である有馬晴信も天正8年3月純忠の説得によりヴァリニャーノ神父の洗礼を受けた。日野江城には日本初のセミナリヨが建てられた。天正10年に大村純忠・大友宗麟・有馬晴信はセミナリヨで学んだ4人の少年使節をローマ法王に派遣した。天正12年3月、晴信は島津義久と組み佐賀の龍造寺隆信を滅ぼす(沖田畷の戦い)。キリストの御加護で勝利できたことを感謝し晴信は浦上をイエズス会に寄進した。大村純忠は先だって長崎をイエズス会に寄進していた。長崎と浦上はローマ領となったのである。後年、長崎と浦上が外国領になっていたことを知り驚愕した豊臣秀吉はイエズス会から両地を没収して直轄地とした。この政策は後の徳川政権にも引き継がれている。
 岬の尾根である万才町を北に歩くと長崎歴史文化博物館がある。長崎奉行所立山支所があったところである。ここで遠藤周作の「沈黙」を想起してみよう。主人公セバスチャン・ロドリゴを取り調べた井上筑後守は実在の人物である(本名は政重・秀忠時代の老中井上正忠の弟・幕府の大目付として長崎仕置の業務を担当し長崎奉行に指示勧告をする立場にあった・詳細は木村直樹「長崎奉行の歴史」角川選書46頁以下)。筑後守は肉体的拷問を下策と考えていた。彼は宣教師を殉教させることは逆にキリスト教信仰を強めることを熟知しており宣教師を理論的に説得し転ばせることこそ上策と考えていた。クリストヴァン・フェレイラも実在の人物であり、転んだ後「沢野忠庵」という日本人名を与えられている。
 遠藤は「沈黙」の創作過程を「切支丹の里」で詳細に書いている。転びの問題を作品化する際に遠藤は「強者と弱者」という視点を中核に据え、執筆動機をこう書き綴っている。「こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰の中に埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く美しいと思っていたものを、裏切ったとき、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼らが転んだ後も、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならない祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼らを沈黙の灰の中に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等を再びその灰の中から生き返らせ・歩かせ・その声を聞くことは-それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである。」(30頁)それまで軽蔑の視線しか与えられてこなかった「転び」(それは「棄教」ではない)に対してこれほどに暖かい視線を送ったキリスト者がかつて存在したであろうか?
 西勝寺を訪れる。この寺にフェレイラが沢野忠庵として署名をした転び証文がある(非公開)。遠藤は、主人公ロドリゴとフェレイラの対面の場を、この寺に設定している。この先の山手の町を「筑後町」という。かつてこの町域に筑後出身者が多く居住したことから名付けられた。「長崎」という地名は大村の家臣・長崎甚左右衛門に由来するが、その長崎甚左右衛門は後に筑後領主・田中吉政(35万石)に仕えて余生を過ごしている(司馬No.11の196頁)。筑後と長崎の深い繋がりは海運によるものだ。海は人と人を隔てるものではなく繋ぐものだった。近年まで物資輸送の主力は船であったからである。長崎と筑後の深い繋がりを背景に筑後でもキリスト教の布教が活発に行われた(09年2月10日「今村カトリック教会」参照)。
 西坂公園に向かう。NHK長崎放送局の裏に当たる。慶長元(1597)年に豊臣秀吉により処刑された26聖人殉教の地として、カトリックの巡礼地に指定されている。殉教地の特定には紆余曲折があった。西坂が処刑地(殉教地)と確定したのは比較的最近のことである。脇田安大「大浦天主堂物語」によれば西坂説が定着したのは浦川和三郎神父による「切支丹の復活」(1927年)の刊行による。大浦天主堂は26聖人に捧げられたものであるが大浦天主堂が「殉教地西坂に向け建てられた」という説明は誤りである。大浦天主堂が建築された元治2(1865)年時点に於いて西坂こそ殉教地とは確定されていなかったからである。私が日本二十六聖人記念館に入るのは初めてであった。殉教者のコトバは弱者に過ぎない私にとってあまりにも強い。処刑される前の聖パウロ三木の説教は以下のとおり。「私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に与えて下さった大いなる御恵だと思う。(中略)キリシタンの教えが敵および自分に害を加えた人々を赦すよう教えている故、私は王(秀吉)と私の死刑にかかわった全ての人々を赦す。王に対し憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。」キリシタン弾圧は教会から非難されたが、日本の権力者側にも言い分はある。天下統一を図る秀吉は1587年に「伴天連追放令」を出したが貿易に配慮し本格的迫害はしなかった。高知に漂着したスペインのサン・フェリペ号船員の発言で「布教をたてにヨーロッパ人が日本を侵略する」と考えた秀吉はフランシスコ会宣教師・イエズス会修道士ら26人を京都で捕縛し、長崎まで引き回して処刑した。見せしめの意味が強いものであった。イエズス会が長崎・浦上を領地にして最初にしたことは領内の神社・仏閣を一軒残らず焼き払うことだったが、かかる無法行動に対する処罰的な意味もあった(「海路9号」海鳥社6頁久田松和則「キリシタンによる仏教・神道の迫害」参照)。
 家康は有馬晴信の賄賂事件(岡本大八事件)でキリスト教が嫌いになった。江戸幕府のキリシタン弾圧が激しくなった直接の契機は天草島原の乱(1637年)だ。これは地元領主の圧政が原因であり宗教戦争でなかった。蜂起した農民にキリシタンが多かったこと・リーダーがキリシタンだったことから幕府は「キリシタン一揆」と認識し徹底的に鎮圧したのである(この点は複数の見方があり山本博文「殉教」光文社新書は宗教戦争の側面を強調している)。個々の信者からみればキリシタン弾圧は純粋な「被害」である。が社会と宣教師の関係という大きな枠組みで見れば宣教師には「加害」者的側面もあった。実際、世界史的には宣教師を中心とするキリスト教徒の加害者性は(特に中南米やアフリカにおいて)顕著だった(詳細は高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ、ラス=カサス「インデイアスの破壊についての簡潔な報告」岩波文庫、布留川正博「奴隷船の世界史」岩波新書)。
 遠藤周作の「沈黙」は誤解されやすい作品だ。欧米のキリスト教布教者からみれば日本の権力者の「野蛮さ」と転んだ司祭らの「弱さ」を感じさせる邪悪な物語に映ってしまうかもしれない。映画化される「沈黙」がどのように描かれるのか私には不安がある。キリスト教原理主義国家の面を有するアメリカにはキリシタン弾圧をした日本人に対する「未開の民」という差別意識が未だ濃厚に残っているからである。
 上り下りが激しい旧浦上街道を北に向けて歩く。左に折れて聖徳寺を訪れる。ここは長崎と浦上の境界であり(民俗学的に言えば結界)特殊な場所的意義を与えられていた。聖徳寺もかつて岬であり直前は海だった。現在も道路側にそそり立つ石垣は城壁を感じさせる。ここが浦上キリシタンの檀那寺とされたところである(浦上四番崩れの舞台)。奉行は自ら手を汚しキリシタン捕縛を行ったわけではない。実際に捕縛を実行していたのは被差別民だった。奉行が矢面に立たないよう弱者と弱者の対立が意図的に作り出されていたのだ。
 浦上街道に戻り、長崎大学医学部前を通って、浦上天主堂へ向かう。この地は江戸時代において庄屋屋敷であった。浦上村ではこの屋敷で踏み絵が行われていた。幕末の開国後、カトリック教会として最初に入ってきたパリ外国宣教会によって長崎の外国人居留地に建てられた大浦天主堂で、浦上キリシタンたちは1865年、220年ぶりに司祭との再会を果たした。が国家神道による国民の教導を考えていた明治政府は禁教政策を継続したため信徒たちは再び迫害を受けた。信徒たちは宗旨を公にしたので棄教を迫られたが、再潜伏することはなかったため「浦上四番崩れ」とよばれるキリシタン迫害事件がおきた。事件は国際的に報道されたので外国訪問中の岩倉使節団はゆく先々で批判を浴び、1873年キリシタン禁制の高札を撤去せざるをえなくなった。キリスト教信仰が公認されることになったのである。迫害の「旅」から帰った信徒たちが心の拠り所として買い取ったのが元庄屋屋敷であり、この地に建設した「神の家」が浦上天主堂である。浦上天主堂は明治28(1895)年に建築が着工し30年の歳月をかけ大正14(1925)年に完成した。床面積1162平方メートル、塔の高さ24メートルに達する東洋一の大教会だった。天主堂は長い迫害の旅から帰ってきた浦上キリシタン信仰の象徴であった。
 浦上天主堂を出た私は平和町商店街の中にある浦上キリシタン史料館を訪れた。貴重な史料を拝見するとともに片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」(智書房)を購入して外へ出た。史料館前の道は旧浦上街道である。昔26聖人が歩かされた約2キロのこの道を、自分で歩いて私はホテルに戻った。

 2日目の朝だ(12月24日)。ホテルを出て路面電車に乗り、市中心部中島川にかかる賑橋に赴く。ここが長崎に於ける米軍の核兵器投下目標であった(戦後数十年を経ての情報公開により判明している)。この賑橋付近はいわば「幻の爆心地」。予定どおりに賑橋上空でプルトニウム爆弾が炸裂していたならば現在の長崎市の姿は今あるものとは全く違うものとなっていたであろう。
 時間を遡る。1941年12月6日(日本時間12月7日)ルーズベルト大統領は核兵器開発に関する研究と予算支出を決定した(当時の貨幣価値で20億ドル)。このことを当時の日本政府は知らなかった。翌日に日本軍はハワイ真珠湾攻撃をしていた。日本政府の意思決定を米軍は暗号解読によって熟知していた。過去を振り返る形(結果論)で述べることが許されるのならば3年8ヶ月後の浦上の悲劇はこの時から始まっていたのである。核兵器の当初の攻撃目標はドイツであった。1945年に意外と早くドイツが降伏したためにアメリカは核兵器攻撃目標を日本に切り替えたのである。投下の政治的意味は対外的に戦後国際社会を威嚇することの他、対内的に20億ドルもの資金を投じた過去の米国政府決定を正当化することにあった。巨額の金銭投資に見合う政治的果実が求められた。科学者らは「実験データ」を欲していた。背後には日本人に対する人種差別的偏見があった。
 米国本土から巡洋艦インディアナポリスで運ばれた核兵器の材料はテニアン島において組み立てられた。8月9日、出撃命令が下された。乗務員は祈った。「神のご加護を」。乗務員の多くはキリスト教徒であった。B29ボックスカー爆撃機に乗る彼らも不安だった。失敗なら自分の命もなくなるだ。彼らが祈った「神」は浦上の信者たちが祈った「神」と同じものだったのであろうか?
 B29ボックスカー爆撃機はテニアン島を飛び立った。巨額の費用を要して開発されたプルトニウム爆弾の投下は肉眼による目標確認が絶対条件とされた。第一目標の小倉が視界不良だったためボックスカーは長崎に向かった。この視界不良は前日の八幡空襲の煙が残っていたというのがこれまで推測されていた原因だったが、近時「当時小倉に住んでいた人が広島の新型爆弾報道に接し投下を警戒して煙を炊いていた」という見方も指摘されている。いずれにせよ長崎は当日の偶発的事情により核兵器攻撃の対象となったのである。
 賑橋の電停から路面電車に乗って松山町で降りる。道路を渡ったところに爆心地公園がある。昭和20年当時ここは公園ではなかった。普通の民家が多数並んでいたのである。昭和20年8月9日午前11時2分、この上空500メートルで、爆縮型プルトニウム爆弾が炸裂した。この500メートルという高さは、核兵器による人間の殺傷効果が最も高い高度として科学者(多くはキリスト教徒)により厳密に計算され尽くした高度である。浦上と長崎を隔てる金比羅山によって被害を免れた長崎の民の中には「古来の長崎が守られたのは諏訪さんのおかげ・浦上に落ちたのはキリシタンの報い」など陰口を言う者がいた。長崎の民衆の一部には、江戸時代から存在する浦上への差別意識が未だ明確に残存していたのである。「長崎の被害は軽微である」という公的文書すら存在した。
 キリスト教は「現世利益の宗教」ではない。逆に「現世の苦難こそが来世の栄光の証」とみる。現世で恵まれた生活を送っている者は死後の苦難を畏れて教会への寄進を行い、現世に於いて苦難を味わっている者は最後の審判後の栄光を夢見る。何故、義者に苦難が生じるのか?ヘブライ聖書(旧約聖書)以来のユダヤ教・キリスト教の公式見解は「それは神に選ばれた人間だからだ」というものであろう。だからこそ真のキリスト者である永井隆は「原爆の荒野に神の摂理を意識した」のである。
 爆心地公園の脇に高台がある。高台の崖には複数の防空壕の跡が残されている。エスカレーターを使い坂を登るとそこが平和公園だ。長崎刑務所浦上支所跡である。私は小学校の修学旅行で出向いたときから平和祈念像が好きではない。長崎に出向く前にFBで「平和公園は某彫刻家の自己満足的作品が置かれているだけの歴史を抹消した場所だ」と悪態をついていた。私のいらだちはこの銅像が攻撃国であるアメリカに対し倫理的非難をする何の資格もないことに由来していた。坂を下りて再び坂を登り原爆資料館を拝見する。展示スペースの中で浦上天主堂の被爆遺構が強調されているのが救いである。アメリカから訪れるキリスト教信者の参観者はどんな気持ちで被爆遺構のジオラマを見るのだろう?私の中に意地悪い気持ちが芽生えている。 
 昨日に引き続き浦上天主堂を訪れた。現在の浦上天主堂は昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたものだ。北側川岸に残る吹き飛ばされた鐘楼が現地に残る唯一の遺構である。昭和33年まで浦上天主堂の遺構は現地に存在していた。歴史遺産は13年後の政治的決定により永遠に失われた。浦上教区信徒で編成される浦上天主堂再建委員会が現地再建を決定したことが契機であったが問題は長崎市長の見解が変わったことだった。時の市長・田川務は米国セントポール(聖パウロ)市と姉妹都市締結を進めるにあたり浦上天主堂被爆遺構が現地に存在し続けることは良くないと判断した。議会は「保存すべき」と決議していたが市長は撤去を強行した。この決定にはアメリカ側からの強い働きかけがあったと推測されている(高瀬毅「ナガサキ・消えたもう1つの原爆ドーム」平凡社)。私も被爆遺構を現地保存すべきと考えた(2010年12月15日「見えるものと見えないもの」参照)。加害国アメリカに対し倫理的非難を続ける足場にできたのにという政治的発想だった。
 浦上天主堂を出て松山町電停から帰りの路面電車に乗る。混み合う車内で私は外の景色を眺めていた。そのとき私の内面に突然ある人のコトバが降りてきた。
    「そのままでよいのです」 「あるがままにしなさい」
 それはあまりにも唐突のことであった。
    「現在の浦上教区信徒たちは今の浦上天主堂を愛しているのだ・他の地の人たちが政治的発想で彼らを非難するのは止めなさい」「でも今の鉄筋コンクリート製天主堂では浦上信者が30年掛けて作り上げた聖堂上でプルトニウム爆弾を炸裂させた愚行の意味を世界に示すことが出来ません」
 そんな問いを思い描いた私にその人は再びコトバを投げかけてきた。
    「想像しなさい」 「やってみれば簡単なことです」
 現在の浦上天主堂掲示板には被爆前の写真・被爆後の写真が多く載せられている。想像力さえ働かせれば、浦上のキリシタンが受けてきた悲惨な過去をイメージできるようになっている。 高原至他「長崎旧浦上天主堂1945-58」(岩波書店)も発刊されている。桃山時代から明治時代まで続く長い弾圧時代において浦上の信者たちに神は救済の手をさしのべることが無かった。悪魔のようなプルトニウム爆弾がB29から放たれたときも、神は浦上の悲劇を避けるいかなる手立てもしなかった。政治の前に神は「沈黙」した。浦上信者たちは長い間「政治」に翻弄されてきたのだ。ここに集う信者の方々は世界に向け無言の意思表明をされているのではないか?
    「もう政治に翻弄されるのはゴメンだ!」
 政治とは各人が信じる理念をたたかわせるリアリズムの舞台である。そこで語られる「神」は人間が作り出した幻影にすぎない。政治の前に神は存在しない(誤解を恐れずに言えば、政治に於いて、それは侵略や大量虐殺を正当化する悪魔的概念ですらあり得る)。おそらく神は「政治」を離れた日常生活に於ける平和な人々の心の中にこそ存在するものであろう。そしてそのように解釈された善き神ならば<黙示録的な破壊>を望みはしないはずである。 路面電車は長崎駅に着いた。かつて海であったその場所を歩きながら、クリスマスで華やぐ市民の姿を眺めた。多くの思いを抱いて私は「白いかもめ」に乗り込み長崎を後にした。<終>

* 「転び」が「棄教」ではないことについて遠藤自身が「沈黙」のエピローグに於いて強調しています。英語訳「沈黙(Silence)」では両者が混同されている箇所があるようです。事実であるならば重大な誤訳と言わなければなりません。「棄教者知識人」の代表である日本人・ハビアン不千斎が書いた「妙貞問答」(1605)と「破堤宇子」(1620)は興味深い著作です(平凡社・ワイド版東洋文庫)。前者においてキリスト教を賛美した彼が僅か15年後にキリスト教を罵倒する著作を出しているのです。解説者・海老沢有道氏はハビアンの棄教を「当然なされるべくしてなされた」ものと評しています。知識人であるハビアンのキリスト教理解は極めて表面的なものだったからです。このハビアンの軽い「棄教」とロドリゴの重い「転び」を混同してはいけません。ロドリゴはキリスト教の神を捨てたのではなく、解釈を変えたのです。そして、その解釈され直した神を・その子であるキリストを・「今までとはもっと違った形で」愛しているのです。誤解を恐れず言えば、イエズス会の神は極限状況において「死ね」(殉教せよ)と命ずる神でした。これに対しロドリゴの神は極限状況に於いて「死ぬな」(お前を生かすために・お前たちから踏まれるために・私は十字架にかかったのだ)と語りかける神でした。上記ロドリゴの思考形式は当時の宣教師の感覚から言えば「ありえない」ものです(山本博文「殉教」光文社新書)。「沈黙」は遠藤周作が創造した現代小説だということを忘れてはなりません。
* 2017年1月21日、公開初日にスコセッシ監督の「沈黙(Silence)」を拝見しました。小説のあらすじを知っている者であっても映像化された時にはこれほど鮮明な印象を抱くのかと驚きます。終わった後の気分が重くなる(文字通り「沈黙」を余儀なくされる)映画ですからデートついでの鑑賞は止めた方が良いと思います。あと真のキリスト者の方も相当の意識をもって臨まないと気分を悪くされるかもしれません。遠藤自身、小説「沈黙」の発表後に中傷を受けたと聞きます。真摯なクリスチャンである遠藤は、自身の信仰を明らかにするため後に「イエスの生涯」「キリストの誕生」という著作を生まなければならなかったほどです。軽い気分で観ることが出来る映画ではありません。既に名誉を築き上げ商業的な成功を気にする必要がないスコセッシ監督だからこそ出来た映画だと思います。
* ネット上で秀吉によるキリシタン弾圧や朝鮮出兵を「イエズス会やスペインの侵略から日本を救った義挙」として賞賛している記事を見かけました。近時目立つ「外的視点の偏重による内的視点の暗愚化」の例です。政治は両者の複眼的見地から評価すべきですが、最近の日本は前者に偏り過ぎです。本文で「日本の権力者側にも言い分はある」と記しているのは内的視点に偏りすぎていた見方を補正する必要があると考えたからに過ぎません。朝鮮出兵は明白に間違った政策でした。朝鮮半島の人々に甚大な被害を与えたこと・出兵した日本の武将に多大の負担を掛けたこと・豊臣家自身が権力保持に失敗したことから考えて明らかです。ヨーロッパ人が布教をたてに世界を侵略し膨大な富を強奪したことは事実ですが、だからといって非のない個人を処刑することが正当化されるわけではありません。
* 二十六聖人が当初聖堂をおいたのは今の京都下京区上通り彩小路東北角の妙満寺跡。聖堂に隣接して聖アンナ病院が建てられ、さらに聖ヨゼフ病院が建てられます。四条堀川通りの四条病院が二十六聖人の出発地。(詳細については杉野榮「京のキリシタン史跡を巡る」三学出版を参照)
* 転んだパードレたちは江戸にある井上筑後守の屋敷に幽閉されました。東京メトロ・丸の内線・茗荷谷駅近く(東南)にあります。「キリシタン屋敷」とも「山屋敷」とも呼ばれます。正保3年(1646)に井上の下屋敷内に牢や番所を建てて設けられました。この屋敷にイタリアの宣教師ジュゼッペ・キアラ(ロドリゴのモデル)が収容されました。後に火災で焼失、その後は再建されることもなく、寛政4(1792)に宗門改役の廃止と同時に正式に廃されました。現在、切支丹屋敷跡の記念碑と拷問にあった信者の八兵衛を生き埋めにして石を置いたという「夜なき石(八兵衛石)」があります。
* スペインとポルトガルで世界を2分割した大航海時代のトリデシリャス条約(1494)とサラゴーサ条約(1529)との関連を指摘しておきます。両者は日本を2分割しており、西日本はポルトガルの・東日本はスペインの勢力圏にありました。スペインのサンフェリペ号が漂着した高知は本来はポルトガルの勢力圏でした。そのためスペインの船員は「ポルトガルの世界征服の野望」を語ったのではないかと感じられます。秀吉は上記発言に反応してポルトガルの宣教師ら26名を迫害したのではないでしょうか?「大航海時代の世界史的状況と国内政治との関係」は深く認識されるべきでしょうね。
* FB友である伊崎祐介先生の書き込みを紹介。
 戦国時代に生き、その生涯を日本に捧げた宣教師で外科医だったルイス・デ・アルメイダのことを色々調査中。アルメイダはポルトガルの「ユダヤ人」だったことがわかりました。いわゆる「改宗ユダヤ人=マラーノ」だったんです。マラーノとは、元来の意味は「豚」という意味で、スペインやポルトガルにおいて、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々を指す言葉で、当時のイベリア半島ではレコンキスタ完了後、ユダヤ人に対する迫害が強まり、多くのユダヤ人が異端審問で殺害され、生きるために「ユダヤ教」を捨てキリスト教に改宗しました。彼らは改宗後もマラーノと蔑まれ、隠れてユダヤ教を守っていかなければならず、本国で生業につくことがしばしば難しく、折からの大航海時代の潮流に身を投じて、多くの人々が海外に新天地を求めたと言われています。スペイン・ポルトガル出身の宣教師が、しばしば日本の文化を見下し、内心では日本の植民地化を進めようと考えたのに対して、マラーノの人々はアルメイダに見られるように心の底から戦国時代の日本の民衆を愛し、医療や教育に身を捧げました。アルメイダは「本国に帰らなかったのではなく帰れなかった」のではないかとふと思いました。そう言えば遠藤周作「沈黙」のモデルとされる棄教者クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)も「マラーノ」だったいう説があり、スペイン・ポルトガルのユダヤ人たちは逆にカトリックの側から迫害と拷問にあっていたことをふまえてみると、その後の隠れキリシタンの人々の悲劇がそのまま繰り返されたような不思議な巡り合わせを感じずにはいられません。「マラーノ」の人々も追い詰められ命を守るために「転んだ」のかもしれません。あのロドリゴが呟く「神の沈黙」には歴史的なもっと深い意味があるのかもしれないと気づいたのでした。
 * 佐藤彰一「宣教のヨーロッパ」(中公新書・2018・11・25)を拝読。第1章燃え盛る宗教改革の火の手・第2章カトリック改革とトレント公会議・第3章イエズス会の誕生と成長・第4章托鉢修道会の動き・第5章イエズス会のアジア進出・第6章新大陸のキリスト教化・第7章イエズス会の日本宣教・第8章日本宣教の構造・第9章キリスト教の世界化という章立てで、膨大な資料を駆使しながら大航海時代の宣教の光と影を詳論されています。お勧めです。
* 26人の殉教者の遺骸は分割され世界各地にもたらされました(聖遺物は信者の崇拝対象となっていました)。26人が聖人に列されたのは1862年・教皇ビウス9世の時代です。
* 釈撤宗「不千斎ハビアン」(新潮選書)を拝読。著者は「破堤宇子」を「妙貞問答」の下巻と対応する書物として読むべきだと提唱する。すなわちハビアンは変わったのではなく昔と同じ方法でキリスト教をも相対化したのである、と。山本七平はハビアンを日本教の元祖とまで位置づけているらしい。ハビアンを「軽い」棄教者と描写した私の上記記述も軽すぎる。
* 六条雅敦「隠された十字架・江戸の数学者たち」(秀和システム)は面白い。論旨に全面的に賛同するわけではないが所々に光る記述がある。江戸時代の知識人が高い数学的な知識を持っており、その多くがフェレイラやキアラから最先端の科学を学んでいたという視点は「ありうる」という感想を抱く。彼らが「転向」したのは拷問を加えられたからではなくカトリックの不合理性を論理的に説かれたからだという論旨も「ありうる」と感じた。彼らは元はマラーノ(改宗ユダヤ人)だったとの説がある。ユダヤ教の立場から観ればキリスト教は勝手な宗教だ。マラーノであればそんな感覚を根底に有していてもおかしくない。遠く離れた日本で「ユダヤ的知性」を覚醒させられたというのはアクロバティックな展開だが、極めて面白い視点である。
* 2020年8月26日追記。今日は倉場富三郎の命日。イギリス人貿易商トーマス・グラバー長男として明治3年長崎に生まれた富三郎は加伯利英和学校を経て学習院を中退。アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学とペンシルベニア大学で生物学を学び、1892年に帰国。父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社。長崎汽船漁業会社を興してイギリスから深紅丸を輸入しトロール漁業を導入するなど第二次大戦前まで長崎の実業界で活躍した。大戦によりイギリス人との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ、官憲の監視の下で不自由な生活を強いられた。戦艦武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられた。原爆投下により故郷長崎が壊滅した事が追い打ちとなり終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で首を吊り自殺(自殺の理由についてはスパイ容疑を晴らすために戦争に協力した姿勢により連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もある)。日本に現存する木造洋館として最古の「グラバー邸」は当主グラバーの死後、跡継ぎとなった富三郎が家主となる。昭和14年(1939年)三菱重工業長崎造船所が機密保持を理由としてほぼ強制的に取得。戦後は一時接収されて進駐軍の宿舎となった。昭和32年長崎造船所の創業100周年を記念し三菱造船(当時)から長崎市に寄付された。昭和42年に修理が完了し明治20年代の姿に復元されている。wikiより引用
* 島田裕己「宗教は嘘だらけ」(朝日新書)から。一神教の感覚では「嘘をついてはならない」という戒めは同じ宗教内部の規範に過ぎない。異教徒に対しては全く適用されない。異端尋問の場に置かれたら逃れることが最も重要。なので異教徒に嘘をついても全くかまわない。本当の一神教の人が江戸時代の踏み絵を強いられたら平気で踏むのではないかと思われる。
* 1492年8月3日コロンブスがスペインから出航した。最初に発見した島を彼は「サン・サルバドル島」と命名しこう書き綴った。当時のキリスト教征服者の感覚が良く判る一文である。「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために私は原住民を6人ばかり連行した。」当時はコロンブスが「文明」で原住民は「野蛮」とされた。しかし現代目線でみたときにどちらが「文明」的で、どちらが「野蛮」かは明らかであろう。

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