歴史散歩 Vol.86

ちょっと寄り道(都電)

私は大学生・修習生のとき約10年東京に住んだのですが、都電に乗ったことがありませんでした。このたび仕事で東京に出向く機会があったので2日間の都電の旅をしてみました。
(参考文献 鈴木亨「都電荒川線歴史散歩」鷹書房、「路面電車の走る街№6」講談社、芳賀ひらく「江戸の崖・東京の崖」講談社、別冊歴史読本「歴史の中の聖地・悪所・被差別民」新人物往来社、街と暮らし社「江戸四宿を歩く」、籠谷典子「東京1000歩ウォーキング№27」明治書院など)。

都電荒川線を行く旅の出発点は王子駅だ。理由がある。荒川線は王子電鉄を前身としているのだ(明治39年設立)。王子電鉄は飛鳥山・鬼子母神等への観光用郊外電車として生まれた。明治44年に大塚-飛鳥山、大正2年に飛鳥山下-三ノ輪橋が各々開通した。両者は南北に走る省線(現在の京浜東北線)に阻まれ繋がっていなかった。両者が繋がったのは省線が高架となる昭和3年。その後、大塚から先の路線が鬼子母神・面影橋・早稲田へと延びていった。他方、上野から続く京浜東北線沿いの段差は古代の海食崖である。東は「古代の海」であり西は「古代の陸」である(映画「天気の子」で海が再現された)。ゆえに王子駅の両側で「路線の地理的意味」が違うのである。

京浜東北線を北上し王子駅で降りる。1日乗車券(400円)を買って早稲田行に乗る。運転士後ろの特等席が空いていたので嬉々として座る。運転士の操作を見つめながら前の線路の状態を凝視する。王子駅を出ると線路は左側にカーブし道路との併用区間に入る。都電荒川線が生き残った最大の理由は車と併走しない専用路線がほとんどで車両交通の妨げにならなかったことにあるが、王子-飛鳥山間は唯一の例外である。逆に言うと電車と車両の併走風景はこの区間しか見られないのである。電車が併用区間を通り過ぎると線路は右に折れて急勾配の坂(67パーミル・碓氷峠と同じ!)にかかる。古代における海から陸への上り坂だ。標高15・2mの飛鳥山から26・5mの新庚申塚まで上がったあと、大塚駅の17・4mまで下がり、雑司が谷では31・8mと上がる。線路はほとんどジェットコースター状態である。アップダウンの激しい状態(山谷の繰り返し)を凝視しながら運転士の操作を見つめる。下り坂ではスピードが出すぎないよう運転士が注意を払いつつ運転レバーを操作されていることが判る(電車は急制動出来ないからだ)。車両までジェットコースター状態にならないように厳密にスピードコントロールされているとも言える。都電早稲田にて下車。
 都電早稲田から大隈講堂までの小道は麻雀店が多かったと聞くが、現在は1軒もないようである。カフェがあったので朝食をとる。大隈講堂に対面。ここに来ると私は司法試験の論文試験を思い出す。真夏の3日間に汗をかきかき論文を書き続ける作業を4回強いられた。苦くも懐かしい思い出の場所である。演劇が好きな私は演劇博物館に立ち寄りたかったのだが、まだ午前8時半で、開館時間(10時)まで待てなかったのでパス。三ノ輪橋行に乗り、鬼子母神前で下車。鬼子母神は次の話で信仰を集めている。インドにハーリーティーという女神(訶梨帝)がいた。500人の子を有し、幼い人の子の肉を食べていた。人々は困って釈迦に救済を求めた。釈迦は訶梨帝の1番下の子を神通力で隠した。子の不在に気付いた訶梨帝は必死に探し回ったが見つからないので釈迦に相談に来た。釈迦は「人の子をおまえは食っているが自分だって子を失えば悲しいだろう・お前は人の親の悲しみが判らないのか」と諭した。訶梨帝は悔い改めて釈迦に帰依した。この物語(人肉の代わりにザクロの実を与えたエピソード付き)を私は「家栽の人」というマンガ(第10話)で知ったのだが、私が見る限り、鬼子母神社に上記説話は書かれていなかった。
 雑司ヶ谷で下車。目的は雑司ヶ谷霊園。私は「夏目漱石と久留米1」冒頭において菅虎雄が揮毫した墓石の写真を掲載したのだが実際に墓石を拝見したことが無かった。管理所で墓マップをいただき漱石の墓を探し出した。無事に写真撮影を終えたので上記ページの写真は差し替える。これで来園の目的は達したのだが、せっかくの機会なので著名人の墓を掃苔した。サトウ・ハチローの墓に刻まれている「2人で見ると全てのものは美しく見える」という文が私には印象的であった。
 東池袋4丁目で下車。目的はサンシャインビル横の東池袋中央公園。私は歴史コラム「東京裁判と歴史散歩」にて学生時代ここを訪れたことを記している。32年ぶりに「永久平和を願って」の碑に対面し深い感慨を覚えた(私の歴史散歩の原点)。大塚駅で下車。山手線が高架化される前、荒川線は大塚駅前後で分断されており乗客はその間を歩いていた。両者が繋がるのは山手線高架化が完了した昭和3年である。私は「昔の気分」を味わいたくて駅の南北を実際に歩いてみたのである。
 庚申塚で下車。停留所前の道は旧中山道だ。交差点の近くに猿田彦大神を祀っているお堂がある。猿田彦は天照大御神の孫(ニニギノ尊)が降臨する際に道案内をつとめた神である。庚申とは「かのえさる」であるから「猿」と結びついて道祖神になったのだ。巣鴨地蔵商店街に入る。通称「おばあちゃんの原宿」。高岩寺の門前町だ。「とげ抜き地蔵」と称されており、平日の昼間でも参拝者が多い。近くには六地蔵を祀る真性寺があるが参拝客は高岩寺のほうが圧倒的に多い。やっぱり日本人は現世利益。あの世ではなく、この世での救済を求めるのである。
 飛鳥山で下車。八代将軍吉宗の桜と渋沢栄一の旧邸で著名である。明治実業界の大物・渋沢栄一は500社以上もの企業の創立にかかわり、東京商科大学(一橋大学の前身)の創立にもかかわった。カルフォルニアの排日運動に対して牛島謹爾と協力し努力を重ねた(ポテトキング3)。貧民の救済にも心血を注いだ。実業家として唯一華族(子爵)にもなった。渋沢がこの地に居を定めたのは明治11年。王子周辺は軍事工場が多く立地していたので戦争末期には米軍による空爆の対象となった。渋沢宅も空襲で被災した。清淵文庫が残ったのは奇跡である。飛鳥山下には音無川渓谷がある。西方から流れてくるのが石神井川。現在は暗渠となっている。石神井川はここで流れを変えて南に向かい藍染川となって不忍池に流れていた(現在のよみせ通り・へび道)。それが直進して大地を削り隅田川に流れている。この地形上の事件を引き起こした要因として人工説と自然説がある。自然説が通説とされる(内田179頁)。王子駅から京浜東北線に乗り、宿をとっている秋葉原に帰る。

2日目は早朝の上野から。地下鉄銀座線で浅草へ向かう。銀座線は日本で1番古い地下鉄である(昭和2年開通)。浅草・銀座・渋谷を結ぶ路線が最初に作られたところに当時の浅草の重要性が表象されている。地上から降りる階段の短さで地下鉄深度の浅さ(=古さ)は直ぐ判る。しばし「地下旅」(酒井順子)を楽しむ。浅草駅の階段を上がり地上に出ると目前に黄金ウンコビル(アサヒビール本社)が見える。向こう側にスカイツリーが鎮座している。東京で最も古い浅草寺は早朝からお参りする人が多い。ここは戦争時も祈りに包まれていたに違いない。浅草神社の横から隅田川沿いに出る。今日はここから三ノ輪橋まで歩く計画なのだ。いわゆる「東京のディープノース」(「大阪のディープサウス」と対比)である。今戸神社(旧**神社を合祀する)と本龍寺(浅草弾左右衛門が眠る)で合掌。左方に山谷堀の跡が残る。ここを歩いて行けば、かつての遊郭である吉原だ。早朝の吉原を歴史散歩したいところだが今回は時間が無い。吉原には立ち寄らず(旧)日光街道(吉野通り)を北上する。庶民的な街並みが続く。時間を稼ぐため都バスで途中を飛ばす。
 泪橋でバスを下車。この周辺はかつて「ドヤ街」と称されたところだが、現在、その印象は薄い。ここは「あしたのジョー」(原作・ちばてつや)の舞台となったところである。(ちなみに私の事務所には泪橋の欄干とともに佇むジョーのフィギュアがある)。千住方面に歩く。駅南で道路は線路に寸断されるが人は歩道橋を通って千住駅に行ける。歩道橋から左手に巨大な地蔵が見える。昔の小塚原刑場にある「首切り地蔵」である。罪人の首は日光街道という当時のメインストリート沿いに晒され通行人に権力の怖さを植え付けた。隣の回向院には「解体新書」の翻訳で著名な杉田玄白らの顕彰碑(日本医学会が設置)と「安政の大獄」で刑死した吉田松陰・橋本左内らの墓がある。
 南千住仲通り商店街を通って(現)日光街道に出る。目前に都電三ノ輪橋の案内があるが少し寄り道して浄閑寺を訪れる。吉原遊女の投込み寺として著名なところである。「生きては苦界・死しては浄閑寺」の言葉が遊女の悲しみを表象している。寺裏の墓地に身寄りの無い遊女たちのため「新吉原総霊塔」が建てられており、対面に永井荷風の詩碑がある。時代と折り合わなかった荷風の悲しみが伝わってくる。三ノ輪橋は現在は暗渠になっている音無川にかかる橋であった。音無川は石神井川から王子で別れ田端・日暮里・根岸を流れて三ノ輪橋をくぐって山谷堀となり隅田川に注いでいた。王子と三ノ輪橋は川でも繋がっていたのである。都電三ノ輪橋は日光街道からビル間の狭い路地を抜けたところにある。花壇が設けられている素敵な空間である。「ディープな海底」から「明るい浅瀬」に上がってきた感じがする。1日乗車券を購入して早稲田行の電車に乗車。
 三ノ輪橋から王子までは太古において海底だったので全く凹凸が無い。平坦な線路が続く。運転士にも繊細なスピードコントロールを要求される王子早稲田間のような緊張感が見受けられない。荒川遊園地駅で降りる。親子連れで賑わっている。戦時中は高射砲陣地だったところだ。荒川車庫で下車。午前10時の開門前なのに都電のマニアが写真を撮っていた。荒川車庫では都電の全車両の保守管理が行われている。平日31本・土曜27本・休日28本の電車がここから出勤してゆく。3日毎の軽検査・3ヶ月毎の月検査も全てこの荒川車庫で行われている。隣接している「都電おもいで広場」には2台の古い車両が展示されている。車両の中に昔の写真や路線図などが多数展示されており、時代の変遷を感じることが出来る。荒川車庫から早稲田行に乗車して王子駅に戻る。

王子駅の東は「古代の海」であり西は「古代の陸」であった。都電荒川線を三ノ輪橋から早稲田に向けて乗ると、ディープな深海(山谷)から浅瀬に上がって凹凸の多い地上(山谷)へ進むことになる。約12・2キロを約53分かけて走る都電荒川線の旅。それは江戸から東京への長い歴史と複雑な地形を肌で実感することが出来る「奇跡の旅」なのだ。

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