歴史散歩 Vol.109

ちょっと寄り道(立川)

多摩歴史散歩の3回目は立川。歴史的にも政治的にも重要な都市です。1日目は立川駅の周辺を軽く歩き、2日目は福生(横田基地)砂川・立川基地跡を広域散歩します。
(参考文献)鈴木ユータ他「これでいいのか立川市」マイクロマガジン・「立川を歩く」(立川市教育委員会)・鈴木芳行「首都防空網と<空都>多摩」吉川弘文館・筒井作蔵「五日市街道を歩く」街と暮らし社・星紀市編「砂川闘争50年・それぞれの思い」けやき出版・皆川典久他「東京『スリバチ』地形散歩・多摩武蔵野編」洋泉社・難波功士「米軍基地文化」新曜社など)

学生時代、私は立川に来ることが全く無かった。直ぐ近くにあるのに立川は遠い街だった。当時の一橋生の意識は東(新宿方向)に向いており西(立川方向)に向かうことは普通なかった。大学生にとっての立川は「あまり好ましくない街」という印象を拭いきれないところだった。私が意識的に、すなわち高度の関心をもって、立川を廻るのは実は今回が初めてである。
 国立駅を出た中央線快速列車は数分で立川駅の巨大なターミナルビルの下に入っていく。立川駅は多摩地区の交通の要衝だ。まずは立川駅の歴史から始めることにしよう。立川駅は甲武鉄道の開通時(1889)に開設された。砂川村と柴崎村の中間地点に駅は設けられた。発展していたのは諏訪神社を擁する柴崎村(南)側であったが鉄道開設にあたり柴崎村は近くに鉄道が敷設されることに反対した。そのため甲武鉄道は広い敷地を得られた現敷地を買収したのだ。当初、出口は北にしか作られなかった。甲武鉄道が南の柴崎村側に出口をつくろうとしたところ、柴崎村が蒸気機関車に必要な水の供給を拒否したからである。これに対し砂川村(北)は水の供給を許諾した。この時の対応差によって柴崎村は長年「駅の裏口」というレッテルを貼られることになったのだ。立川に南口が作られるのは駅開設から40年以上経った昭和5(1930)年である。「南北格差」が議論されることが多い立川だが、それは駅が開設された明治時代における柴崎と砂川の対応力の差に起因する。
 南口を出て右(西)に約10分歩くと諏訪神社がある。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社を勧請して柴崎村の中心に創建されたものである。毎年8月最終の週に行われる立川夏祭りはこの諏訪神社の祭りを起源としている。柴崎の鎮守として信仰を集めた。明治41年に八幡神社を合祀し明治43年に浅間神社を合祀している。諏訪社は市内最古の木造建造物だったが平成6年に火災により焼失。現在の社殿は平成12年に再建されたものである。諏訪神社を出て駅方向に戻る。多摩モノレールの下をくぐって、立川南通を東(国立方向)に向かって歩く。この一帯は「錦町」という。駅に近い方が1丁目。昔この辺りは米兵相手の歓楽街であった。立川駅の南側は西と東で全く性格が異なっていた。おおざっぱに言えば、西は諏訪神社を中心とする旧柴崎村の中心であるのに対し東は新興の歓楽街であった。戦後に米軍基地が設けられた立川には兵士を見込んだ色街が2カ所(錦町と羽衣町)設けられた。須崎の業者が入り、進駐軍向け慰安所(RAA)を経てカフェー街になった(「国立」参照)。米軍基地に対する「立川」の対応には南北で著しい温度差がある。
 歩いて行くと左に立川市民会館(通称・たましんホール)がある。私は大学2年生のときに小林研一郎指揮・東京交響楽団演奏でベートーヴェン「第九」を歌う舞台に立った。偶然に加わった第九合唱団だったが、田舎者の私が本格的な文化活動に触れた最初の機会で感銘も大きかったのだ。駅方面に戻る。歓楽街に南口ギャンブルの拠点「ウインズ」(JRA)がある。北口にある競輪とともに「ギャンブルの街・立川」を象徴している施設。昔、この辺りは学生が近寄り難いディープな街であったと聞く。現在は何故か街全体が小綺麗になっており昔の暗さを感じさせない。
 駅に戻りコンコースを通って北口に出る。広いペデストアリアンデッキが連なる。買い物だけならデッキを歩けば用が足りるのだが、デッキを歩くだけでは生きた立川の街の様子は判らない。デッキを降りて地上に出よう!北口駅前広場は7200平方メートルの広さを持ち、北に進む駅前通は中央に緑地帯がある左右二車線の広い通りだ。ここは昭和19年に建物疎開が実施されたところ(立川の昭和史第1集立川の建物疎開の記録」立川市教育委員会)。「建物疎開」とは昭和18年から昭和20年に掛けて全国的に大規模に実施された延焼を防ぐ事業だ。東京「府」が東京「都」になったのは昭和18年7月1日であるが、その目的は戦争遂行であり(告諭第1号に明記)その政策の柱の1つが建物疎開だった。戦後、多くの都市で広い道路が形成されたが(京都で言えば御池通)その原因の1つは建物疎開である。高島屋の手前の通りを「緑川通り」という。立川は西北が高く東南が低い傾斜地であり、飛行場に降った水が駅方面に向けて集中するので直ぐ洪水になった。これを解消するため大戦末期に立川飛行場排水路として建設されたのが緑川。曙町から南下し羽衣町を通って青柳を経由し多摩川に流入する約4キロメートルの人工河川である。現在は暗渠となっている。
 東に向かって歩く。北に曲がると立川競輪場。京王閣・西武園と並ぶ競輪場のメッカだ。「競輪グランプリ」が実施される競輪場として著名である。競輪場があるということは立川が「戦災都市」だったことを意味する(「久留米競輪1」参照)。立川は昭和20(1945)年2月16日から8月2日まで少なくとも13回、米軍の空爆対象となった。アメリカ軍は空都である立川に狙いを付け執拗に空爆した。それは戦後の米軍による軍事的利用を意図したものであった。競輪を終えた客が駅に帰るルートは2つある(鈴木岡島118頁)。勝者は正門から広い道を西に向かい立川通りに出る。ここに飲み屋と風俗ビルが建ち並んでおり、アブク銭が消える。敗者は南に伸びる細く暗い路地(通称・オケラ街道)を歩くのだという。第二小学校横に出ると細いシネマ通り。最初に映画館が出来たので命名。戦後は米兵相手の歓楽街となった。松本清張「ゼロの焦点」(昭和34年)の舞台である。
 緑川通りに戻り西に向かって歩くと高島屋・伊勢丹・パレスホテルが並ぶ現在の中心繁華街。モノレールの下をくぐると昭和記念公園の入口。米軍から返還(1977)された立川基地跡の一角に昭和天皇在位50年を記念して作られたものだ(旧・陸軍航空技術研究所)。広大な緑の公園には多くの家族連れが訪れている。基地返還で生まれた空間の存在意義は更に高まることであろう。
 歩いて立川駅に戻り中央線快速列車で国分寺に帰る。1日目はこれで終了。

2日目は福生駅から立川駅まで広域的に廻る。国分寺を発ち立川で青梅線に乗り換え福生駅で降車。此処に降り立つのは初めてだ。学生の頃から横田基地に興味はあったが行く気にならなかった。学生時代以来の宿題を今こそ果たす。村上龍「かぎりなく透明に近いブルー」を思い起こす。駅前を北進し右に曲がると飲み屋街がある。かつては米兵相手に大いに繁盛した繁華街もアルファベットが減って何処にでもある飲み屋街に変貌しつつあるように感じられる。左折すると飛行場に向かう上り坂になる。この上り坂は古代多摩川が形成した崖線である。坂を登ると横田基地の第2ゲート。前を通るのは国道16号線。この辺りではアメリカ風に「ルート16」と呼ばれている。
 横田基地は崖線上の平坦地に形成されている。滑走路の総延長は約3350メートル。立川の西北方向に広がる高燥な崖線上は飛行場を建設するのに最適である。が、本来、横田は立川飛行場の付属施設に過ぎなかった。戦後、米軍は立川飛行場を接収し既存滑走路東に南北約2000メートルの新滑走路を建設し朝鮮戦争時に多く使用した。が、立川滑走路の実効延長は1500メートル強に過ぎず、1950年代後半に就航が計画された大型ジェット輸送機の離着陸が困難だった。そこで日米合同委員会において米軍は立川飛行場の拡張を日本政府に要求した。大型機への対応には北への滑走路拡張が不可欠だった(南は鉄道があるので無理)。この計画に対して砂川の地権者や活動家らが猛反対。こうして1957年に「砂川事件」が勃発する。砂川事件の余波で拡張計画が停滞したため米軍は横田飛行場(旧・立川飛行場付属多摩飛行場)滑走路を1300メートルから一挙に3350メートルに延伸し立川の軍事機能を順次移転した。立川のツケを福生が取らされた格好だ。現代の地図をながめると、基地周囲に周りの街並みとは明らかに異質の(点々で記されたような)広大な住宅地が目に映る。何処かで見た記憶が?「ワシントンハイツ」だ。明治神宮南に存在した米軍高級将校の住居(「渋谷」参照)。ワシントンハイツと同じような街並みが横田基地の周辺(福生・武蔵村山・立川)に未だ残っているのだ。横田基地周辺は「米軍基地文化」のメッカであった。FENからジャズが流れ米兵が「アメリカ流の自由」を満喫していた。その名残が強烈な「ルート16」を歩いて南下する。
 福岡発の飛行機は伊豆半島辺りで南下し、房総半島を迂回して東京湾を渡り東から羽田空港に降りる。かような不可解な飛び方をするのは東京上空に「横田空域」が設定されているからだ。日本は今も首都の空の自由な飛行が出来ない。未だ終結していない「朝鮮戦争」の存在をタテに国連(連合国)軍司令部が今なお横田基地内に残存している。アメリカが「朝鮮戦争の終結宣言」に対して冷淡であるのは東西冷戦構造の残存が「軍事的な植民地支配」の維持に都合が良いからである。他方で東西冷戦構造は日本政府にとっても都合が良かった。「敗戦国の責任」を資本主義対社会主義という「イデオロギーの対決」にすり替えることが出来たからである。
 イタリアンレストラン「ニコラ」で昼食をとりさらに南下する。砂川から西に向かってくる五日市街道は横田基地の滑走路で寸断されている。この街道は慶長元(1596)年に家康が街道を整備するよう指示したことに遡る由緒ある道である。しかし横田滑走路を延長する際、米軍はかかる歴史ある五日市街道を無視して基地内に編入する暴挙に出た。その結果、五日市街道は南側を大幅に迂回するルートになったのである。横田基地を過ぎた辺りで左側から接するのが現在の五日市街道。16号線を直進すると複数の線路を越える。ガードを降りて左に曲がると拝島駅だ。
 拝島駅から西武拝島線に乗って2つめの武蔵砂川で降りる。南に玉川上水が流れている。見影橋公園から南下すると五日市街道の砂川三番交差点。豪農の家が目立つ 。この辺りの豪農は慶長年間から岸村(現武蔵村山市岸)の村野三右衛門が砂川新田の開墾を始め寛永年間に入り居住を始めたことに由来する。家康が入国した慶長8(1603)年から多摩は天領(直轄地)に組み入れられる。玉川上水が開削された承応3(1654)年以降、多くの新田開発がなされた。玉川上水は羽村から四谷大木戸までの約43キロメートルに開削された上水道(飲料用)である。落差は約100メートル。水位を落とさず四谷まで開削できたことが広く江戸の町に上水を供給することを可能にした(「新宿」参照)。玉川上水は豊富な水量を誇った。なにせ多摩川という大河川本流から直接に取水しているのだ。その一部を農業用水として活用出来たことが新田開発を可能にした。元文2(1737)年に柴崎分水が開通する。幕府権威下の土木工事により豪農となった者たちには「親徳川」の気分が濃厚であった。幕末において多摩地域から新撰組の主要メンバーが集まっている背景にはかかる史実が存在する。
 阿豆佐味天(あずさみてん)神社を見学する。寛永6(1629)年の創建とされている。この地は砂川闘争の際に農民達が集合する拠点になった所だ。農民がイデオロギーではなく「先祖から受け継がれた農地を守りたい」との純朴な気持ちで闘争に参加していたことを象徴する。深読みすれば「親徳川」の気分が強い砂川の農民には「反・薩長政権」の根っこがあるのかもしれない。
 近くの「砂川学習館」で展示物を拝見。砂川事件が多数の史料と写真で紹介されている。砂川事件は立川飛行場拡張を巡る闘争に関する刑事訴訟である。昭和32(1957)年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際「基地拡張に反対するデモ隊の一部がアメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し基地内に数メートル立ち入った」として、デモ隊のうち7名が「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定」(現在の「地位協定」の前身)違反で起訴された。最高裁大法廷(裁判長・田中耕太郎)は昭和34年12月26日、異例の早さで「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから外国の軍隊は戦力にあたらない。したがってアメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない」「日米安全保障条約のように高度の政治性をもつ条約は一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限りその内容について違憲かどうかの判断を下すことはできない」として一審無罪判決を破棄し差戻した。この判決に関しては(機密指定を解除されたアメリカの公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことによって)新たな事実が次々に判明している。東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受け、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は判決破棄を狙い外務大臣藤山愛一郎に対し最高裁への跳躍上告を促す圧力をかけていた。跳躍上告を促したのは通常控訴手続では刑事訴訟が長引き、昭和35(1960)年に予定された安保条約改定に反対する社会党など「非武装中立を唱える左翼勢力を益する」との理由からだ。昭和34年中に米軍合憲との判決を出させるように要求したのだ。最高裁長官である田中耕太郎が自らマッカーサー駐日大使と面会し「伊達判決は誤り」として「一審判決を破棄・差し戻しする」と言明していたという。砂川事件が「立川事件」と呼ばれないのは旧柴崎村が滑走路延長に反対したわけではなく反対したのは専ら買収対象となる旧砂川村の農民たちだったからだ。柴崎は米兵を相手に歓楽街として繁盛している商人の街だった。これに対し砂川は江戸時代以降に代々農地を守り続けてきた農民の村だった。土地を奪われることへの拒否感は凄いものであった。砂川学習館の周りには空き地が多い。多くが国有地である。国策として進められた立川飛行場拡張を巡る買収対象とされた土地である。砂川闘争の結果、飛行場の拡張は為されなかったのでそのままの状態で放置されている。
 南に拡がるのが立川飛行場(現・陸上自衛隊立川駐屯地)。大正11(1922)年、陸軍航空部隊の中核として開設された。昭和4(1929)年に立川と大阪を結ぶ初の定期航空路が開設された。昭和6(1931)年に東京飛行場(羽田)が開港し、これにより1933年に民間機が東京飛行場に移転したので陸軍専用となったものである。立川飛行場は陸軍航空部隊の研究製造拠点でもあった。隣接地に陸軍航空工廠や陸軍航空技術研究所があり新型機の開発実験もしていた。周辺に立川飛行機・日立航空機・昭和飛行機工業など民間企業と下請工場が多数建てられていた。
 戦後、立川飛行場は米軍により接収された。首都真近に「空の帝国」アメリカ軍の大規模な基地が君臨したのである。砂川事件の副産物として立川飛行場は返還されたが、アメリカはその代償として「立川よりも大規模な横田基地」を実現した。主要機能の横田移転とともに立川は段階的に返還が実施され、1977年に全敷地が返還された。東側は所有者である立飛企業株式会社・新立川航空機株式会社に返還され、その余は商業施設・都立砂川高校・市立中学校・体育館など公的施設になった。他地区は3つに分割され陸上自衛隊立川駐屯地・海上保安庁・警視庁東京消防庁・災害医療センター等の官公庁施設が設けられた(「立川広域防災基地」と総称される)。
 泉町を南北に貫通する中央南北線の通りを南下し立川市役所の先を左折する。目前に国文学研究史料館・極地研究所・国語研究所という国立の文化施設が並んでいる。その隣にあるのが東京地裁立川支部だ。平成21年に東京地裁の支部は八王子から立川に移転されたのである(八王子には簡易裁判所が残されている)。多摩都市モノレール「高松」駅からモノレールに乗り短い空中の旅を楽しむ。窓外に美しい風景が広がる。左側に旧立川飛行機時代から存在する給水塔がある。
 立川北駅でモノレールを降りる。あたりは近未来の雰囲気を漂わせるビル街だ。昭和記念公園の周囲には広大な緑の空間が広がっている。ペデストリアンデッキを歩きながら立川の過去・現在・未来を想起する。もしも砂川の民が戦わずスムーズに立川基地滑走路の北への延長が為されていたら、現在の立川の豊かな環境は存在しなかった。昭和記念公園・立川防災基地を含む広大な国有地の形成に当たり、砂川事件は不可欠の要因であった。明治以降立川には「鉄道と航空の要衝」という位置づけが与えられた。それが立川の使命であり宿命でもあった。その延長線上で立川には災害時における「日本の臨時首都」たる意味付けさえ与えられている。それが立川の運命なのだろう。そんなことを考えながら私は中央線快速電車に乗り込み立川を後にした。<終>

* 若い頃の思い出が詰まった「国分寺と国立」および歴史的・政治的に重要な街「立川」を巡る多摩の歴史散歩(全3回)はこれで終わりです。

* 2018年11月30日、東京地裁立川支部は、横田基地周辺の住民144名が、米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと過去の騒音被害や飛行継続で生じる将来の被害を訴え国に賠償を求めた第9次横田基地公害訴訟の判決を行い、過去の被害に対する賠償として9567万円余の支払いを国に命じたものの、飛行差し止めや将来分の賠償は認めませんでした。厚木基地訴訟の最高裁判決(2016年)を前提としたものであり目新しいものではありません。米軍基地が治外法権のような状態にあることを司法自ら認めているのです。

* トランプ政権以後、アメリカの大統領が羽田空港や成田空港ではなく「横田基地」に降り立つ姿が日常化しました。軍事的な植民地支配の象徴である横田基地に降り立つことを従前の米国政権はかなり慎重に忌避してきたのですが、最近は全く気遣いをしなくなったようですね。不思議なことに日本の政治家・官僚・マスコミも全く気にしないようです。

* 松本清張「ゼロの焦点」(新潮文庫)のあらすじ。
 板根禎子は26歳。広告代理店に勤める鵜原憲一と見合い結婚した。紅葉が盛りを迎えている信州から木曾を巡る新婚旅行を終えた10日後、憲一は「仕事の引継ぎをしてくる」と言って金沢へ旅立つが予定を過ぎても帰京しない。禎子のもとへ「憲一が北陸で行方不明になった」という勤務先からの知らせが入る。急遽金沢へ向かう禎子。憲一の後任である本多の協力を得つつ憲一の行方を追う。禎子は会社の得意先である耐火煉瓦会社の社長室田儀作・佐知子夫妻と会い、昔、憲一が立川で風紀係巡査をしていたことを知る。禎子は立川に戻って当時の同僚葉山警部から話を聞き再び金沢へ向かう。室田の会社で受付嬢をしている田沼久子は「パンパン英語」を話す。その久子の内縁の夫(曽根益三郎:憲一の偽名)が自殺し久子も殺害されたと聞いて東京に戻る。「終戦直後の女性の状況」に関するテレビ番組を見た禎子は、ふと室田夫人の前歴を想像して金沢へ向かい、室田夫妻を能登金剛まで追う。佐知子は荒れ狂う洋上をボートで漕ぎ出していた。事件は(久子と同様に)戦後の立川で米兵相手のパンパンをしていた前歴を知られたくない佐知子が仕組んだものであった。

* wikiによると多摩3郡は1893年(明治26年)東京府に編入された。理由は、帝都の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くためとされた。しかし当時の政府が日清戦争に備えての海軍力増強予算を帝国議会で成立させるためだったという説もある。それは、この時期の多摩地域は自由民権運動の中心でもあり、この時期には自由党の地盤でもあった。これは、多摩地域に養蚕業を中心とした製造業者とそれを横浜港から輸出する流通業者が多く、軍事よりも産業振興を求める層だったからであるといわれている。軍事大増強を阻もうとする自由党の地盤を行政区画の変更という手段で解体したのではないかというもの。反対運動の中心となったのは自由党の戦闘組織である三多摩壮士団だった。大阪事件以降の村野常右衛門や森久保作蔵は東京市政において大正末頃まで大きな影響力を及ぼす。多摩は名望家で民権家で同時に多様な集団の受け皿となった人物を多く輩出している。1895年(明治28年)に内務省が東京15区を政府の管理下に置くために「東京都制および多摩県設置法案」を出したが、帝国議会や東京市民から自治権を奪うものだとして反発を受け、成立には至らなかった。(本文で記したとおり「都政」の成立は軍事態勢確立が目的・昭和18年。)

* 『在日米軍基地 米軍と国連軍「2つの顔」の80年史』(中公新書)を著した川名晋史氏へのインタビュー。
―国連軍とは、いかなる軍隊か。どの基地に駐留しているのでしょうか。
川名: まず、括弧付きで「国連軍」と呼ばなければなりません。朝鮮戦争の際に即席でつくられた米国の有志連合軍のことを、便宜的に国連軍と呼んでいるのです。国連憲章に定められた、正規の国連軍ではありません。だからといって、べつに怪しいものでもなくて、きちんと安保理決議にもとづいて作られています。韓国を支援する有志国で統一司令部を作りましょう、と。そして、その司令官を米国に任命してもらいましょう、ということになりました。そうしてできた軍隊に国連旗の使用を認めた。それがここでいう国連軍です。当時、ソ連が安保理を欠席していたことで、そんなミラクルが起きました。後々への影響を考えれば、歴史のいたずらと言ってもいいかもしれない。いずれにせよ、名称には揺らぎがあります。ちなみに、日本の外務省は「朝鮮国連軍」と呼んでいます。国連軍の司令部は韓国にあり、その後方司令部が日本にあります。東京の横田基地がそうです。横田のほかに座間(神奈川)横須賀(神奈川)佐世保(長崎)普天間(沖縄)嘉手納(沖縄)ホワイトビーチ(沖縄)の7ヵ所が現在日本にある国連軍基地です。米軍基地でもあります。米軍基地を友軍に「又貸し」できる。そのことを日本と約束したのが国連軍地位協定(1954年締結)です。国連軍地位協定の存在を知る人はあまりいないのではないでしょうか。本書を著した背景です。
―戦後、在日米軍のみならず、国連軍という枠組みがつくられ、あえて今日まで残された歴史に驚きました。「日本は基地を提供し、米国は防衛する」と説明されてきましたが、あらためて米軍にとって日本は何であるか、日本にとって米軍は何といえますか。
川名:依然として答えるのが難しい質問ですね。多様な読者のニーズを満たすには、いろいろな角度からお答えしないといけないと思いますが、ここでは安全保障の観点に絞ってお答えします。米軍からみた日本は、朝鮮半島の後背地です。日本にある基地は、朝鮮戦争を戦うための基地。これがもっともストレートな答えだと思います。つまり、韓国防衛のために日本に基地がある。現実を直視すれば、そう表現するしかない。しかし、本来、モノにはいろいろな用途があります。基地も冷戦期であれば対ソ連、対ベトナム、現在では対中国、対北朝鮮というかたちで「極東」という面を対象に、用途の汎用性をもっています。しかも、日米地位協定と国連軍地位協定によって、米軍からみれば、かなり使い勝手のいい仕様になっている。ちなみに、この「かなり」という表現の具体的な意味を理解したいというのも、私がこの研究を続けている動機の一つです。「かなり」の意味は、諸外国と比較することでしか明らかになりません。その意味で言えば、排他的な基地管理権、つまり基地のなかで米軍はほとんど無制限の自由を得られるということ、そして全土基地方式、すなわち、好きな場所に基地を置き、いつでも手放すことができる、この2点が「かなり」使い勝手がいいと考えられる理由になります。諸外国ではあまりみられない、日本の基地に特有のものと言ってよいです。なぜ諸外国ではみられないかといえば、それはもちろん主権侵害に当たるからです。他方、日本にとっての米軍は、自国の安全をアウトソーシングする対象です。安全保障の外部化といってもよい。憲法9条が自衛隊の存在と活動を制約し、その不備を補うために、日本に米軍を置く。これが基本的な構図だと思います。実際、戦後の保守政治家は、米軍を日本の「傭兵」と表現し、溜飲を下げていた。一方の米国もそうしたアナロジーを共有している。だから、たとえばトランプは米国に居てもらいたいなら金を払え、と言ったし、米国人の一部は、日本は米国にタダ乗りしているとみる。自衛隊を強化せよ、集団的自衛権を行使せよと迫るのは、「俺たちは日本の傭兵じゃない」という米国の異議申し立てでもあります。このあたりの日米間の認識ギャップはいまも大きいと思います。日本は米軍を傭兵化して安全だけを手にしたい。一方の米国は日本のタダ乗りを許さない。米軍基地は両者のニーズの解になっている。戦後の日米関係を表現する「基地と安全の交換」とはそういうものです。戦後一貫して存在する基地問題は、日本が安全をアウトソーシングすることで抱えることになった費用だともいえる。ただ基地が米軍から得られる安全保障上の便益と釣り合っているのかどうか、米軍は日本を防衛するために日本にいるわけではないということを本書で示しました。

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