類型→個体への注目→他の類型
田口茂「現象学という思考」(筑摩選書)に以下の記述があります。
ほとんどの場合、われわれは対象が持っている一般的特徴や機能しか観ていないのでありそれが我々の予想通りである場合ますますこの傾向は強まる。(略)他方、ある対象が持っている特徴や機能が我々の予想を裏切る場合、そこではじめて我々は「この個体」としてのその物や特徴などに着目し、その対象が予想した類型に属さないとすれば、どのような類型に属するのかをあらためてじっくりと吟味しようとする。我々は現れてきたものをいつも何らかの類型の元で観ているのであり、この類型的なものの見方を基本として、それがうまく機能しないときにはじめて個体的なものの個性的なあり方に目を向ける。だが、それさえ、機能しなかった類型の代わりにどの類型が当てはまるのかを観るだけの作業であり、適切な類型がみつかれば目前の個体の個性はまたしてもあまり顧慮されなくなるだろう。
法律家は事案が持っている一般的特徴や機能しか観ていません。それが法律家の予想通りである場合、この傾向は強まります。事案が持っている特徴や機能が法律家の予想を裏切る場合、そこで初めて法律家は「この個体」としての事案に着目し、予想した類型に属さないとすれば<どのような類型に属するのか>を改めてじっくり吟味しようとします。法律家は現れてきたものを何らかの「類型」で観ているのであり、この類型的なものの見方を基本とし、それがうまく機能しないときに初めて「個体的なもの」の特徴的なあり方に目を向けるのです。しかし、それさえ「機能しなかった類型の代わりにどの類型が当てはまるのか」を観る途中の作業に過ぎません。適切な類型がみつかれば目前の事案の個性はまたしても顧慮されなくなります。これは悪口でも何でもなく、法律家という仕事の本質的な属性です。法律家は「現象学という思考」を毎日実践しているのです。