身体を司る経験としての法
伊藤邦武「物語・哲学の歴史」(中公新書)の記述。
人間の感覚的知覚は、デカルト以来の意識の哲学では、外界からの感覚的刺激を精神が観念という形で「受動」することとされてきた。メルロ=ポンティは、知覚的経験がそうした外界からの刺激の受動的刻印とは異なるものである、と主張する。知覚とは、環境世界の多様性の中に、幾筋もの主体的行動の可能性を読み取り、それらの可能性からなる領野を形成しつつ、同時に変形しようとする、それ自体が流動的な作用である。身体は「作用の指向性」を発揮する。それは意識の外側に明快な描像を描くことではなく、これまでの経験の蓄積と習慣を背景的な「地」としつつ新たな経験の可能性を「図」として浮かび上がらせる作業である。身体が司る経験は刺激の受容ではなく、行動の可能性の表出の作用である。
要件事実の枠内においては、弁護士の法的行為はアプリオリに構築されている要件事実を裁判官に向け主張立証するだけの受動的なものです。しかし、実際に20年以上この仕事をやってみて、弁護士の法的行為とは要件事実を解釈適用するだけの行為とは違うと感じています。弁護士が依頼者との関係性のなかで産み出す知覚は、世界の多様性の中に幾筋もの行動の可能性を読み取り、それらの可能性で成り立つ事実を形成しつつ同時に変形しようとする、流動的な作用です。弁護士は消しゴムのように身を削って正しい規範を作り出そうとします。それは経験の蓄積と習慣を背景的な「地」としつつ、新たな経験の可能性を「図」として浮かび上がらせようと試みる作業です。あらたな「生ける法」を産み出すべく動き出すときに弁護士の身体が司る経験は刺激の受容ではありません。それは行動の可能性の表出です。弁護士における法とは「生きられる世界」そのものです。