5者のコラム 「学者」Vol.103

議論と経験の関係

ミル「自由論」に次の記述があります。

人は議論と経験とによって自らの誤りを正すことが出来る。経験のみでは充分ではない。経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには議論がなくてはならない。誤った意見や実行は徐々に事実と論証との前に屈服してゆく。しかし事実と論証が人の心に何らかの効果を生じるためにはそれがひとの精神に突きつけられなくてはならない。しかも事実の意味を取り出してくれる注釈なしにそれだけで意味が説明されるというような事実は極めて希である。

世間には「経験」を金科玉条のものとして扱っている人が大勢います。たしかに自分が経験したことは貴重な人生の羅針盤となります。しかし1人の人間が自分の人生において経験できることなどたかが知れています。人が自分の誤りを正すことが出来るのは経験の他に良質の議論を得たときです。自分の経験を偏重するのではなく議論も正しく認識することが不可欠です。貴重な経験的事実があっても、それだけで意味が判るものはほとんどありません。その意味を明らかにするためには一般的抽象的な議論(注釈)が必要です。一般的抽象的な「議論」を正確に把握することにより自分の「経験」的事実をいかに解釈すべきなのかが示されます。誤った意見や行動は経験的事実と抽象的議論の総合により徐々に改められてゆくものなのです。ただし一般的抽象的な「議論」を偏重することには別の問題が生じ得ます。経験的事実をふまえない空理空論に堕する危険性があるのです。弁護士は経験的事実の重要性を正確に認識しつつ「両者の総合」によって誤った意見や行動を正してゆくべきです。これを「人生の羅針盤」とするためには「精神に突きつける」必要があります。明確に注釈を示されない限り「議論と経験」は人間の心に良い効果を及ぼさないからです。