良き師匠と美しき誤解
初めて独学で法律の勉強を始めた頃、私は法律学において人の名前の付いた「説」というものが存在することの意味が判りませんでした。司法試験受験生の中には「佐藤幸治先生は凄い」 「大塚先生は最高だ」 「やはり鈴木先生でいく」と熱く語る方がいましたが、正直に言って法律学徒のこの異常な熱気にはついていけませんでした。学問における「師匠」の意味が多少判ってきたのは最近です。 内田樹教授は著書「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)で述べています。
今の若い人たちを見ていて、いちばん気の毒なのは「えらい先生」に出会っていないということだ(7頁)。「自分の師匠は最高だ」という誤解あるいは妄想により生徒は固有の成熟のプロセスをたどることができる(18頁)。
誰にとっても良き師匠など最初から存在しません。良き師匠は「自分の師は誰か」と探し続ける者において「師に対する美しい誤解」が成立した時にのみ、現れます。その意味で師弟関係というのは恋愛関係と同じ構造をしているのです。ウチダ先生はジャック・ラカン(フランスのフロイト派精神分析医)の知見を基礎において上述のことを詳細に説明しています。
弁護士登録した者がいきなり独立し業務を開始することには大きいリスクが伴います。なぜなら弁護士業務における倫理性の問題は本を読んで身に付くようなものではないし、弁護士会の研修で1・2時間話を聞いたくらいで身に付くような類のものでもないからです。師匠は身をもって生きた弁護士倫理を弟子に示します。弟子は「えらい先生」である師匠から、かかる薫陶を受けることにより初めて弁護士としての固有の成熟のプロセスをたどることができるのです。弁護士大増員の流れの中で修習生の「修行先」が確保できない懸念が現実化しています。「良き師匠」を得ないまま年数を重ねる若手弁護士が増加すれば、この国の司法は崩壊するような気がします。