5者のコラム 「5者」Vol.138

自分を駆り立てている動機

学生時代に敬愛した哲学者フーコーは「セクシュアリテの歴史」を刊行するにあたり第1巻と第2巻以降で構想を変えてしまいました。その理由を彼はこう述べます。

私を駆り立てた動機はというと極く単純だった。それは好奇心だ。知るのが望ましい事柄を自分のものにしようとして務めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。はたして自分はいつもの思索とは異なる方法で思索することが出来るか・いつもの見方とは異なる仕方で知覚することが出来るか、そのことを知る問題が熱視や思索を続けるために不可欠である。そのような機会が人生には生じるのだ。哲学が思索の思索自体への批判作業でないとすれば今日哲学とはいったい何であろう?自分が既に知っていることを正当化する代わりに別の方法で思索することがいかにどこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば哲学とは何であろう?<試み>こそは哲学の生ける主体なのである。(ミシェル・フーコー「性の歴史Ⅱ」(新潮社)序文)。

何故私はこのコラムを書いているのか?自分でも判らないところが多いのですが、重要な位置を占めるのが好奇心です。新たに知識を得るため努力する類の好奇心ではなく既に知っていることからの離脱を可能にしてくれる好奇心です。いつもの思索とは異なる方法で思索することが出来るか?そういう機会を快楽として得られる問いが思索を続けるためには不可欠です。哲学とは自分が既に知っていることを正当化する代わりに別の方法で思索することがどこまで可能であるのかを知ろうとする企てです。「問いの企て」こそは哲学の生ける主体なのです。私が法律実務をそれ以外の分野における知見から考えているのも上記企ての1つに他なりません。