5者のコラム 「5者」Vol.27

自分の悪を認識しつつ飼い慣らすこと

一休宗純は室町時代の名僧です。一休さんは足利義教の政所から「世法とは如何?」と問われたときこう答えたとの逸話が残っています(紀野一義「名僧列伝1」講談社学術文庫)。

世の中は 食うて糞して寝て起きて(?)さてその後は(その後は?)死ぬるばかりよ

この一休さん、遺諧(高僧が死の直前に弟子に書き残す戒め)にこう残しました。

老僧 身後 門弟子の中 或いは山林樹下に居し 或いは酒し陰坊に入りて 禅を説き道を説きて 人の為に口を開く輩有らんは、これ仏法の盗賊我が門の怨敵なり。

一休さんは酒におぼれ・女郎屋通いをしながら、禅を説き人の道を説くような奴がいたら「仏法の盗賊・我が門の怨敵」だと言いますが自身は酒し(酒屋)陰坊(遊郭)に入り浸り禅を説き道を説いた人です。そんな人が、この遺諧をしているところに慕われた秘密(可笑しさ)があります。「自分の人生を自分で否定した」と解釈することも出来ます。一筋縄ではいかない。
 私は「高尚な法を説く為には酒屋と遊郭に入り浸る必要がある」などと主張するつもりはありません。一休さんも表向きは悪所に入り浸ることを禁じています。遺諧は遺諧として文字通りに読むべきです(酒屋と遊郭には「お忍び」で行ったはず)。私は潔癖症の法律家に対して違和感を感じます。「合理性を追求しすぎた為にかえって著しい不合理に陥る逆説」が生じる可能性を感じています。近時、法曹関係者による性犯罪の報道が目立ちます。一般化には慎重であるべきですが過度の合理性の追求は心の病を呼び起こす危険性があるように感じます。私は自分の中の悪を全否定する人よりも自分の中の悪を認識しつつこれを上手に飼い慣らしている人のほうに親近感を感じています。