聖なる遊女論と地味な仕事
小谷野敦氏は「もてない男」(ちくま新書)において、フェミニズムが恋愛市場主義を蔓延させた結果「もてない男」の居場所がなくなってきた悲哀を論じました。その小谷野氏が「日本売春史」(新潮選書)で女性学が想定してきた娼婦イメージに異議申立をしています。近世の娼婦を菩薩か何かのように理想化して描く歴史は空想に過ぎません。氏はかかる見解にスピリチュアル・フェミニズムの影を読み取り、これを「あらゆる女性は女神である」式オカルトである(56頁)と断じます。そして「聖なる遊女」論の起源としての網野善彦氏の議論を検討し徹底的に批判しているのです。現代を批判的に見る者は視座を強化する必要性に迫られて過去を美化しがちです。中世や近世の娼婦を菩薩か何かのように理想化して描く者がいたとしても、そんなものは男性の側から見た一方的な幻想に過ぎません。吉原の投込み寺であった浄閑寺の墓地には「生きては苦界・死しては浄閑寺」と記された碑が残されています。全ての職業に光の面と闇の面があります。娼婦を光の面からだけ描くのは間違いです。花魁がきらびやかな服に身を包み高い文化的素養を有していたとしても、多くの娼婦はこの職業の闇の面に苦しめられ、人生を恨みながら死んでいったのです。
弁護士を理想化して描くテレビドラマや映画が昔から多数ありますが、そこで描かれる弁護士像は小説家や脚本家の観念世界の中で構成された単なる「物語」に過ぎません。現実の弁護士ワークの大半は他人の失敗行動の地味な尻ぬぐいです。弁護士業務は「危険・きつい・汚い」要素を濃厚に有しています。たしかに脚光を浴びる派手な(カッコ良い)仕事もありますが例外です。多くの弁護士の仕事のほとんどは日の当たらない地味なものです。誤解なきように願います。