生気を与える存在
「白拍子」(しらびょうし)なる芸能は元来男性が演じるものでしたが、やがて烏帽子水千に太刀の姿で登場したアソビメたちの真似るところとなり、これを演じるアソビメを白拍子と呼ぶようになりました。やがて白拍子は音楽や舞いを用いて魂を招く巫女という意味になり、次第に売色を意味するようになります。白拍子は諸国を自由に行き交いながら客と出逢い・歌舞を奏し・客の魂を活気づけるため一夜をともにしました(岩下尚史「芸者論」雄山閣)。古代の人々は身体の中心に魂が納まっていれば健康と考え、何かの具合でこれが体内から離れると身体が衰え、戻らなくなった状態を死と考えたそうです。魂を体内から離れぬようにしっかりと納めておくことは重要なことでした。もし魂が身体から離れたら呼び戻さなければなりませんし、魂そのものをより強固たるものとするために他の魂を持ってきて付け加えることもありました。静御前を筆頭とする白拍子なる存在は魂という観念と切離して考えることが出来ません。白拍子は、みずみずしい魂を体内から離れぬようしっかりと納めるための存在、魂が身体から離れた場合はこれを身体内に呼び戻すための存在として観念されていました。性器ではなく「生気」を与える存在であることに本質があったのです。
弁護士の前に出現する依頼者には魂が抜けてしまったような人がいます。精神的な意味で死に近い状態の人が多数いるのです。放置していたら自殺しそうな人がたくさんいます。弁護士を芸者たる白拍子に準えるならば、私たちは依頼者の魂が体内から離れぬようにしっかりと納めておく存在、仮に依頼者の魂がその身体から離れている場合には身体にこれを呼び戻すための存在であるべきです。日本人の自殺者は年間3万人を超えます。この中にはほんの30分だけでも弁護士に相談をしていれば命を救えた方が相当数いたのではないかと私は感じます。