5者のコラム 「学者」Vol.165

環境への適応と不適応

戸田智弘「学び続ける理由」(デイスカバー21)によると一橋大学の阿部謹也学長は1993年入学式の式辞において次のコトバを引用したそうです(30頁)。

人間は、自分が置かれている環境にうまく適応している限りで、その環境の本質を理解することが出来ない。(カール・シュミット)

阿部先生は「世間とは何か?」を学問的考察の中心に据えた方です。西洋中世史が専門ではあったのですが、その射程は必ず現在の日本に及んでいました。日本の学者は庶民が本当に対峙している「世間」を問題にせずに西洋の輸入学問としての「社会」を議論していると断じ、物足りなく思っておられました。日本社会への適応を難しく考えていた私は大学院進学を夢見て「日本の庶民が本当に実感している対人関係の規律原理は何か」考察したいと思っていました。当時の私にとって「それを議論しない事には自分が生きていけないテーマ」こそ<世間>だったのです。世間こそ「自分が適応できない環境」の本質でありました。学者としての自分の能力のなさに気付いた私はそういった知的関心事項を封じ込んで司法試験の勉強を始めました。試験に合格し弁護士としての資格を得ることが出来て、しばらくの間は法律業務に精進しました。何故ならば自分にとって法律実務の世界は「本質を理解すべき研究対象」ではなく「うまく適応すべき環境」だったからです。幼児が為すべきことが母語で構築される世界への順応であるのと同様に若手弁護士にとってまず為すべきことは法的言語で構築される法律実務の世界に良く順応することです。しかし、ある程度、実務法曹の世界に順応してきた頃から再び私の中で「法律実務という環境の本質」を認識したいというビョーキが再発してきました。このビョーキが生じてくると、法律実務に馴染んでいた私に、自分が「適応」していたはずの弁護士的世間への「違和感(不適応)」が出てくるのです。困った性分です(笑)。

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