教育環境浄化の思想
浪人した時、私は八女から福岡の水城学園まで1年通学しました。6時前に家を出てバイクで久留米に来ます。西鉄電車に乗り天神で降ります。親不孝通りを歩き水城まで通うのです。小学生の頃から高校生の頃まで新聞配達をしていたので早起きは何でもなかったのですが、さすがに片道2時間の通学は疲れました。「かったりー」と感じたときは横道に入って怪しげなお店で時間をつぶす時もありました。親不孝通りは当時はもっと怪しい街だったのです。昔は高等教育機関と繁華街(色街)は身近にありました。街の真中にあるのが大学でした。大学生は「悪所」の近くで本当の知を「吸収」していたのです。九州大学(箱崎)の近くにも柳町遊郭(石堂川の左岸)がありました。九州には帝国大学1校しかなく、帝大生は超エリートでした。多くが上層階級の子息でした。そこで「学生が柳町遊郭で遊び呆けてはいけない」と理由から、明治43年に柳町遊郭は住吉地区に作られた新開地(新柳町・現在の清川)に移されたのです(井上精三「博多大正世相史」海鳥社、木村聡「赤線跡を歩く2」自由国民社)。ここに現代に通じる「教育環境の浄化」思想の萌芽が見られます。
司法研修所で私は「湯島」という場所の凄さに感動しました。すこし歩けば湯島天神がある、東京大学がある、ラブホテル街はある、鈴本演芸場はある、ストリップ劇場がある。凄まじい「悪所」でした(湯島は江戸時代から岡場所として著名なのです)。私は湯島で修習をさせていただいた最後の期。湯島の空気を吸って学べたことを大変幸運に思っています。現在の和光の研修所には「悪所」の要素は全くありません。郊外に移転した大学が無菌状態に置かれているのと同じことです。現代の若き法律学徒には精神的な意味でのたくましさが欠けているという話を聞くことがよくあります。このことと研修所の無菌状態化は根底で繋がっていると私は睨んでおります。