抽象的な問題導出の意義
植木雅俊「仏教50話」(西日本新聞連載)に以下の記述があります。
私たちは「この紙は白い」という。英語で「This paper is white.」その構文は世界のほとんどの言語に共通する。ところがインド人は「この紙は白性を持つ」という表現を好む。インド人は現象に囚われず、背後の普遍性に関心がある。その見方があるからこそインド人はゼロを発見した。起源前2世紀のことである。多くの民族は羊が何頭というように、ものに即して数を捉える。インド人は目の前にあるものに囚われない。ものから離れて数を抽象化し数をもてあそぶ。3より1少ないのは2。2より1少ないのは1。1より1少ないのは何だ?ということでゼロの概念が簡単に出てくる。ものに即して数を捉える民族からは出てきにくい。
人類の歴史を変えた「ゼロの発見」。それは現象に囚われずに「背後の普遍性」に関心をもつインド人の脳の習慣に起因するものだったんですね。「抽象化」の意義が良く判ります。法律家も同じ脳の習慣をもっています。目の前の事象に照らして直ぐ「勝てるか負けるか」を判断するのではなく、目の前の事象から離れて問題を抽象化する。権利義務関係として対象を再構成し(通常それらはAの場合にはBをすることが出来るという命題の形で議論される)その抽象的な世界での問題導出を図る。その抽象的な権利義務関係を具体的な事象に戻し、当該事案においてのAが抽出され結論としてのBが帰結される。「対象に即して勝ち負けを議論する人」からは出てきにくい思考です。特殊な思考と言えます。問題を抽象化するために法律家は脳の中で極端な思考実験もしています。「全てが許される世界」や「全てが禁止される世界」そういった極端な世界を想定し、両者をともに否定することによって「場合分け」の思考が出てくるのですね。次に裁判のニュースに接したときは、こういう抽象的な議論も為されていることを念頭におかれると関心が増すと思います。